このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


旅に病んて夢は枯野をかけ廻る

大阪市天王寺区下寺町に円成院という寺がある。


通称、遊行寺。時宗の寺である。

 延享2年(1745年)、鹿児島市の時宗浄光明寺の隠居寿門が四天王寺の塔頭薬師堂を買収して、「円成院」を創建したそうだ。

植村文楽軒墓所


 植村文楽軒は淡路島の人で、本名は正井嘉兵衛。淡路浄瑠璃の花形で、中国筋を巡業し、名声を博したそうだ。文化7年(1810年)、没。

円成院に芭蕉の墓もあった。


碑面は「芭蕉翁墓」の他は読めない。

 享保19年(1734年)、芭蕉四十一回忌に 志太野坡 が「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて建立。

『諸国翁墳記』 に「屋土里塚 大坂下寺町薬師在 野坡建」とある。

『摂津名所図会』(遊行寺薬師堂)に「芭蕉翁像」「芭蕉翁碑」の記載がある。

芭蕉翁像 本堂の側に安す。座像壱一七寸。此肖像初メハ近州にあり。又江府にも姑(しばら)く在せしを近年二柳・舊國・蝶夢などいふ俳師の寄附しけるとぞ聞えし。由縁別記に書す。

芭蕉翁碑 高九尺。初メハ當寺厨の傍にあり。近年堂前に移す。表題、黄檗佚山の筆。背文ハ滋野井中納言公澄卿の墨跡。銘は豊前州の醫師香月牛山撰す。

与謝蕪村 も遊行寺の芭蕉の墓に詣でているそうだ。

   浪花遊行寺 にてばせを忌をいとな
   みける二柳庵に

蓑笠の衣鉢つたへて時雨哉


芭蕉の墓の手前右手に芭蕉の句碑もあった。


絶筆句

旅に病んて夢は枯野をかけ廻る

出典は 『笈日記』 (支考編)。

 元禄7年(1694年)10月8日、芭蕉が病床で詠んだ句。「絶筆句」とされるが、翌9日に「 清滝や波にちり込青松葉 」と詠んでいる。12日、芭蕉は大坂 南御堂 前花屋仁右衛門宅で死去。

 天明3年(1783年)3月12日、 二柳庵桃居 社中建立。本堂に芭蕉木像を納めた。

二柳の句が刻まれている。

とし経ぬるこゝろはせをやわすれ霜

後、芭蕉木像は 梅旧院 に移された。

 天明8年(1788年)、几董は遊行寺の芭蕉忌に詣でた。

   浪華にありて、遊行寺のはせを忌に
   詣

法の燈や吹井の鶴も時雨けり


 寛政4年(1792年)4月12日、 長月庵若翁 は遊行寺で芭蕉の百回忌を営む。

   祖翁百回忌追遠之百韻

うぐひすやこの百とせに老を啼
   若翁

 入ほど深き若竹の奥
   凡十

賢をめす勅使は車のり捨てゝ
   不二

享和3年(1803年)3月28日、二柳は81歳で没。

「芭蕉茶屋」の碑


二百年祭建之
応需 馬田江公年書 楓下亭夕映
   西区阿波堀通 八木利助

 大正13年(1924年)11月12日、 荻原井泉水 は遊行寺を訪れたが留守であった。

 私達は下寺町の通に下りて、遊行寺の門前にある「芭蕉茶屋、庭内に墳有」と案内の石が立っている門口は、ぴったりと鎖して開かない。隣で訪ねると、

「お婆さん居やはりまへんか……」

とばかり、やはり居ないらしい。「墳あり」というそれも、この茶屋の庭に黄檗の佚山の題筆のある芭蕉の記念碑があるというだけの事だが……。

『随筆芭蕉』(新清水寺)

 昭和3年(1928年)10月30日、荻原井泉水は再び遊行寺を訪れている。

 (附記) その後に、私は、その芭蕉茶屋の芭蕉の碑を見ることを得た。六尺ほどの大きな石である。碑の表には——

   曼 倩 詼 語 (曼倩の詼語)

   相 如 俳 文 (相は俳文の如く)
                          芭蕉翁墓
   妙 辭 奇 句 (妙辭奇句)

   思 入 風 雲 (思は風雲に入る)

       眞竹子書

とあり、裏には

桃青子姓松尾字甚質號芭蕉産于伊賀宦于伊勢卒于難波其顛末載野坡子之碑文故不贅矣余嘗…(桃青子姓は松尾、字は甚質、芭蕉と号す。伊賀に産れ、伊勢に官宦え、難波に卒す。其の顛末は野坡子の碑文に載す。故に贅せず。余嘗て……)(以下略)

享保十九甲寅晩秋日前豊倉藩官八十老翁牛山香月啓益誌

とあり、右側には——

       淺生庵野坡

   私 淑 浪花後藤梅從甫

          洛下須田風之甫等與建

とある。遊行寺の後庭にも、句碑がある。細長い石で、表に

   絶筆   旅に病で夢は

          枯野をかけめぐる

裏に——

       天明三年

蔦がべったりと這いかかっていて、是をはがさなくては月日は読み得ない。

大江神社 へ。

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