このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

清水寺〜花見塚〜

長崎市鍛冶屋町に 清水寺 (HP)がある。


清水寺の石段


石段の半ば左手に「時雨塚」の碑があった。


右側面には「しくれ塚」とある。

 時雨塚は翁塚とも呼ばれ、初め春徳寺にあったのが転々として、宝暦十四年七月十一日紗戒によって、清水寺観音堂の石坂(現在地)に移転されたといわれる。

 碑面は風化しているが

   宿かりて名をなのらする時雨哉

の句があったのではないかと推定される。

『九州の芭蕉塚』(川上茂治編著)

春徳寺 の「時雨塚」との関係が分からない。

長崎山清水寺


本尊は千手千眼観世音菩薩。

九州西国三十三ヶ所25番札所。 真言宗 霊雲寺派の寺である。

国指定重要文化財 清水寺本堂

 清水寺は、京都 清水寺 の僧・慶順によって元和9年(1623年)に開基された。当初は京都の清水寺に倣って木造懸造の舞台をもつ構成だったが、正保3年(1646年)に現在の石垣・石造高欄・石畳の形式に改修された。現・本堂は、寛文8年(1668年)に唐商・何高材が日本人妻の菩提を弔うため、子の兆晋・兆有と共に寄進再建したものである。何高材はこれより前に、崇福寺大雄宝殿(国宝)も寄進していた。

 本堂の平面は、奥の内陣と前面の外陣を身舎(もや)とし、四周に吹き放ちの裳階(もこし)を巡らせたほぼ正方形とする。外陣に舟底型のいわゆる黄檗天井を架け、虹梁(こうりょう)を受ける組物に挿肘木(さしひじき)を用いるなど、中国様式の混入が著しい。平成17年から5ヶ年にわたる保存修理により幕末頃の姿に復原・整備されている。

長崎市教育委員会

本堂の脇に「花見塚」があった。


志はら九八花のうへ那る月夜かな

出典は 『初蝉』 (風国編)。

貞亨5年(1688年)春、「笈の小文」の旅の途上で詠まれた句。

『蕉翁句集』 (土芳編)には「よし野にて」と前書きがある。

花見塚(芭蕉句碑)

 花見塚は文政7年、松尾芭蕉の句
「志はら九八花のうへ那る月夜かな(しばらくは花の上なる月夜かな)」
と、その返句として祥禾が詠んだ
「初さくら世に偽りの道もなし」
を刻んだ句碑である。

 文化10年(1813年)6月、平田祥禾は芭蕉百二十回忌、去来百十回忌に 渡鳥塚 を建立。

 元禄11年(1698年)7月10日、各務支考は久米素行に案内されて清水寺に詣でている。

久米のなにかし素行にいさなはれて此清水寺 に詣けるに今日は二万五千日の功徳とかや。殊に女こゝろのたのみをける日なるへし。此津の遊女ともの人も見人にも見られむとよそほひ立たるに、往來のをひ風に心ときめきせられて、花すゝきのなひき合たる野邊は男山もあたにたてりと見ゆらんかし。


私の旅日記2015年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください