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各務支考

『梟日記』(各務支考)


 元禄11年(1698年)4月20日、難波津を門出。6月1日小倉、9月7日下関に着くまでの西国旅行。

西華坊梟日記 乾

元禄戊寅之夏四月廿日、津の國や此難波津に首途して、人もしらぬひの名にし逢ふ筑紫のかたにおもむく。道遠く山はるかにして、たゞ雲水の身をまかせたれば、世にいふ山姥にはあらねど、みづからくるしび、みづからたのしむ。さるは世の人のありさまにぞ有ける。

    卯の華に難波を出たる無分別

今宵は西の宮に宿す。難波の舎羅此處におくり來る。このおのこはかねてこの行脚にくみすへかりしか、さる事侍りてならすなりぬるを、ことにほゐなき事におもひて一夜の名殘をしむへきと也

   みしか夜の名こりや鼾十はかり

廿一日

兵庫の湊川を過て 楠か古墳 を見る。されは此士は文にあはれに武にたけかりしか。一子正行か櫻井の宿のわかれまておもひ出られて

   鎧にも泣たもとあり百合の露

かの 須磨の浦 を過るほとは此里の新茶ほすころにてそれもあはれに淋しとはおほえられし

   關守もねさせぬ須磨の新茶哉

からす崎にいたりて頭をめくらせは須磨あかしの眺望又こよなし

   山懸て卯の花咲ぬ須磨明石

五月五日

  備前國

此日 岡山の城下 にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきのはなやかなるを見るにも、泉水の旅情はさらにわすれがたくて、

   松風ときけば浮世の幟(のぼり)かな

岡山城


六日

此日 吉備津宮 にまうづ。此朝はくもりはれみ、おもひさだめがたき空のけしきなるを、かりそめに思ひ出ぬる道のことさらに照りわたりて、そのあつさたえざらんとす。各かぶり物もとめ出るに舊白はあやまたず、雲鹿は笠の緒のなまめきたる、いかなる人にかかり出らん。ひとつ緒の俄あみ笠は、梅林のぬしの名にこそにほへ、晩翠はよのつねの法師がらにもあらぬに、供笠とかいふなるからかさに、柄のなきものをうちかぶりたれば、夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめりと、眞先におしたてらるゝに、雨放しの風まけして、果はたゞきずなりぬ。三門柴山のほとりも過行ほどに、夕陽の影は山をひたして、笹迫(セマリ)とかや、かんこ鳥の聲もきこゆなり。

   俳諧師見かけて啼や諫鼓鳥

されば鶯・ほとゝぎすの世にしられたる、鴈の聲のまたれてわたる空、ちどりのあかつきはさら也。さるは哥にもよみ詩にもいふなる、諫鼓鳥の淋しさのみ誰にかよらん。かくて八坂(ヤソコ)といふ所の橋をわたりて、きびつ山にむかふ。そもそも此神は一神二應とかや。備前・備中の兩國におはして吉備の中山なかにへだゝりぬ。

   みじか夜やどなたの月に郭公

八日

  備中國

此日雲鹿・舊白をいさなひて倉敷におもむく。鵙かはなといふ處は山城の六地藏に似て侍りといふに、けにもくらしきはみやこのたつみともなかむへかり。

   宇治に似て山なつかしき新茶哉

狂客三人 除風 庵にこみ入。あるじの僧は外にありておどろき歸る。そのよろこび面にあらはれて、心ざし又他なし。茶漬の冷飯は露堂のぬし、行水の湯は誰かれといふより、とうふ・蒟蒻の施主も有て、わかき人老たる人さまざまに行かひさゝやきて、あるじの僧はいきもつきあへず。その事この事漸に暮はてゝ、しばらく灯前夜雨の閑を得たり。されば此あるじの除風は、松島・白川の風月にもやつれ、武城の嵐雪が黒白の論にあづかりて、はじめて風雅に此事ありといふとをしれり。本より眞言のながれに身をおきて、生涯もよくつとめたりといふべし。

   先いのる甲斐こそ見ゆれ爪(瓜)なすび

      露堂亭

   五月雨に袖おもしろき小夜着哉

此里の東南に山あり。この山に小堀遠州の汲捨給へる井ありて、今なをしたゝり絶る事なしと。露堂曰、この水又酒によろし。一荷汲ときは底をつくせとも、たちかはるほとありて又一荷出と。まことに清淨の水にこそありけれ。西華坊かつて姫路を過し時、何の東三郎とかやいへる少年の我に初白の茶一ふくろおくりてたひねの風情をくはへられしか、此里に來てこの茶ある事やむ事なし。水汲は雲鈴法師、茶挽は除風とさたまりて、客は尚雪・青楮の二老人、あるしは露堂にもあらす、我にもあらす、たゝのみてなむやみぬ。是又一時の風雅なるへし。

   茶にやつすたもとも淺し山清水

十三日

此日倉敷を出て八懸におもむく道のほと五里はかりなるへし。除風・雲鈴ノ二法師をいさなひて觀音寺に宿す。今宵の空のおほつかなきに曉の夢さめて鐘の聲をきく。

   夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ

十六日

  備後國

       宿福善寺

此日尾道より小舟に棹して、安藝の竹原といふ處にわたる。道のほど八里ばかり也。青巒の影左右につらなりて江上の遠望遠からず。浄土寺の塔は松の木間にかくれて、 千光寺 の塔はこなたの雲にそびゆ。西湖の風月・煙雨の樓臺すべてこのまのあたりをさらず。

廿二日

      宮 嶋

       神前奉納

   燈籠やいつくしま山波の華

廿六日

     徳 山

雲鈴曰、今宵此所發句ありや。予曰、なからん。徳山とは夏の名にあらず。先師むかし出羽の國を過たまひて、

    あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

此句は吹浦の二字うれしければかく申され侍しを、此ごろなにがしが集には、福浦かけてと出し侍り。是俳諧をしらぬのみにあらず。先師をあやまるにちかし。鈴曰、しからば吹浦・徳山の類は發句あるまじきや。予曰、季節の相應あるべし。福浦は正月とおもひよせて、万歳・鳥追の部にあるべく、徳山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし。

廿七日

     宮 市

此地に 天滿宮 おはし、鏡の御影ときこへさせ給ふは、さすらひのむかし、旅姿を水かゞみ給ひしよりかく申傳へしと、宿のあるじのかたり申されしに、

   五月雨ににごらぬ梅の疎影哉

廿九日

  長門國

今宵は下の關につきて流枝亭に宿す。欄干に風わたりて雲臥衣裳さむし。さむし文字・赤間の二關は、筑紫・中國のさかひにして、海のおもて十余町にさしむかふ。 壇の浦 といふも此のほどなるべし。

   關の灯のあなたこなたを夕凉

三十日

此日下の關を出て小倉にいたる。此地の人々のとゞめ給へるを、行さきもくらきやうに侍れば、歸るさにはかならずとゞめられん。まして此ところ古戦場にして、秋のあはれをこそ見るべけれとて、是よりこゝろつくしにぞおもむきける。

西華坊梟日記 坤

元禄のことし六月一日豊前の小倉にいたる。その夜は有觜亭に宿す。是より九州の道、東西にわかれて、行脚の心ざしさだめがたし。

    笠に帆をあげてどちらへ夕凉

     大 橋

この日、元翠亭にいたる。此おのこは、おかしきおのこにて、人に面をかざらねば、心又物にかゝはらず。その夜いねたりけるまくらのあなたにて、明日さらば何をかもてなさむといへるに、何もかまへたる事侍らずと、こたふる聲のひきいりてきこえたるは、げにこの人の妻なるべし。我さらに美好の味をもとめねども、竹の子は已に過て瓜・茄子はいまだきたらず、今ぞ心ぼそき世なりける。

   竹の子や茄子はいまだ痩法師

五日

      中 津

此日竿水亭にいたる。あるじはゐ給ざりしが、なにがしのむす子もたりければ、親がかくいひをけるなど、こゝろやすきほどにもてなされて、おとなしき子はほしきものかなとおもはるゝよ。今日はとにあつき日なるに、夕だちをまつといふ題のこゝろにて、

   みな月の雲一寸のにしきかな

七日

此日 宇佐の宮 にまうつ神前に眼をとちてそのかみをおもひ奉るに感情まつむねにふさかる

   鎧きぬ身もあはれなり蝉の聲

今宵は小山田のなにかしに宿すさるを芦惠のあるしにまねかれて風雅の物語なとしけるか捨かたき事にいそかれて宵のほとに歸るとて

   短夜のうさとよむへし月の宿

十四日

野紅亭にあそふ。亭のうしろに蓮池ありて一二輪を移しきたりて此日の床の見ものにそなふ。あたかあるしの紅の字を添るに似たり。連衆十六人をのをのこの筋のにほひふかく吾門の風流この地に樂むへし

   廬山にはかへる橋あり蓮の花

此曉ならん野紅のぬし夢もおもひかけぬ事に、おさなき娘の子うしなひ申されし。その妻も風雅のこゝろさしありて、世のあはれもしれりけるふたりの中のかなしさ、露も置所なからん。かゝる痩法師の身にたに子といふものもちなは、いかに侍らんとおもひやるはかりはかなし。

世の露にかたふきやすし百合の花
   支考

晝かほもちいさき墓のあたり哉
   雲鈴

   子をおもふ道にといへる人の言葉も今のうへにおも
   ひつまされて

十四日の月に闇ありほとゝきす
   野紅

面かけも籠りて蓮のつほみかな
   倫女

十五日

      呼丁亭

   祭客我ほとくろき顔もなし

十六日

      獨有亭

   さかづきや百日紅にかほの照

此亭に先師はせを庵の手跡あり。是は湖南の 正秀 がかたへ、難波の旅舘よりおくり申されし文なり。

   文詞に

何とやらかとやら、行先々日つもりちがひ、秋も名殘のやうやう紙子もらふ時節になりて、紙子はいまだもらはず、たゞ時雨のみ催したるなと、その終に發句三あり。

   重陽の朝奈良を出て難波にいたる

菊に出て奈良と難波は宵月夜

   酒堂 が、予が枕もとにて鼾をか
   きしを、

床に來て鼾に入るやきりぎりす

   又十三日住よしの市に詣て、壹合
   升ひとつ買申候てかく申候。

枡かふて分別かはる月見かな

主曰、此宵月夜の句は何とうけ給り候半。予曰、是は影略互見の句法也。此格をしらざれば見る事かたし。主曰、月見の句又如何。予曰、分別かはるといふ中の七文字見がたし。發句は殊更その人の身にあてゝ見るべし。升といふ物は世帶の道具なるに、此枡かふて後は鍋もほしく桶もほしゝ。世の中の隱者此筋よりあやまる事を人の鏡には申されし也。

さりやこのふみを見るに、師翁の書殘し給へるもの都あたりにはあまたありながら、筑紫の果に相見たる面かげの殊に、此文は命終の日數も廿日にたらぬほどなり。その日の筆とり鼻もうちかみなど申されしありさまの今なを、忘れぬなみだこそはてしなけれ。

   菊もありて人なし夏の宵月夜

十七日

今宵の月の凉しきに夜道かけんとて玖珠のかたにたひたつみちすからいとねふたし行さきもいさやしら月夜の果は風さへ身にしみて谷をわたり山を越るほとに藪村とかいふ所にてには鳥の聲を聞

竹あれは鷄あり里は夏月
   支考

朱拙曰、このあたり人里ありとはかねてしれるたに今宵はおほろけにたつきなきこゝろもせられて藪村の鷄の聲も人をおとろかすはかりにそありける

白雲の下に家あり夏の月
   朱拙

道のかたはらに柴折しきて例の食固(コリ)をひらくに鷄ははらはらと啼て心ほそし

盗人の夜食やなつのみたれ鷄
   雲鈴

代太郎とかいふなる麓のさとにいたりて夜ははやほのしらみたるか殘月のかけに郭公の二三聲はかり啼過たるをたゝ有明の月そ殘れるとおもひあはせたる哀ふかし

   都をはいつ六月のほとゝきす

廿四日

   熊 本

此日順正寺にいたる。是は近江の 李由 より便し給へるにぞありける。この寺の小僧達のものかきて得させよといふに、國の産なれば 水前寺 の事を尋ね侍るに、江津の川上半里ばかりにあるよし。さるは水苔にてぞありける。

   苔の名の月先凉し水前寺

此地に長水のなにがしを尋ね侍るに、この春身まかり申されけるよし。ありし友達の僧使帆とかや、そのほかの人々もかたりて物かたりせられけるに、あはれはかなの人や。蕉門の風雅にこゝろざしをよせて、 桃舐 とかいへる撰集もありしが、さるは西王母が桃の實にやあらん、先師の名にふれたる桃にやあらん。それもなく是もなくなりて、姓名一夜の秋といへる詩の心にやあらん。

   桃の實のねぶりもたらぬ雫かな

廿六日

   宇 土

       圓應寺

   闇に來る秋をや門で夕凉み

廿七日

   八 代

      理曲亭

   みな月や蜜柑の秋も今三日

      露 亭

   蝉の聲けふは晝寐の仕舞かな

九日

  肥前国

    長 崎

此日十里亭にいたる。このあるじは洛の去來にゆかりせられて、文通の風雅に眼をさらして、長崎に卯七もちたりと翁にいはせたるおのこ也。この地に來りて、酒にあそばず、肴にほこらず、門下の風流誰がためにか語らん。

   錦襴も緞子もいはず月夜かな

十日

久米のなにかし素行にいさなはれて此 清水寺 に詣けるに今日は二万五千日の功徳とかや。殊に女こゝろのたのみをける日なるへし。此津の遊女ともの人も見人にも見られむとよそほひ立たるに、往來のをひ風に心ときめきせられて、花すゝきのなひき合たる野邊は男山もあたにたてりと見ゆらんかし。さるは浮草の世にうかれて身をあたなりと見る人は、浦のみるめもいかにあたならん。今さしあたりたる物おもひはなけれと、左右の翠簾越にのそかれて、顔のをき處なからんこそうたておもはるれ。禿といふものゝ何こゝろなくて、茶漬喰ひたしとおもへる雀の花見かほにもたとへ侍らんをひさき、いかなるあた人にか馴て物おもふ事もならひてむと、是さへあはれにおほへられける。

   草花の名にたひねせんかふろとも

十一日

此日洛の 去來 きたる。人々おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會しておもひがけぬ事のいとめづらしければ、

   萩咲て便あたらしみやこ人

牡年・魯町は骨肉の間にして、 卯七 ・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、 丈草 はいかに髪や長からん。 正秀 はいかにたちつけ着る秋やきぬらん。野明はいかに野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。 落柿舎 の秋は腰張へがて、月影いるゝ槇の戸にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに、

そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿
   去來

   返 し

柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな
   支考

十二日

卯七曰、公等(キンラ)自讃の句ありや。曰、自讃の句はしらず。自性の句あるべし。

應々といへどたゝくや雪の門
去來
有明にふりむきがたき寒さかな

評曰、始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、荅をきゝてたゝくも推敲の二字ふたゝび世にありて、夜の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をいふべからず。

膓に秋のしみたる熟柿かな
支考
梢まで來てゐる秋のあつさかな

評曰、始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をいふべからず。

されば秋ふたつ冬ふたつ、そのさま置草の變化に似たれば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は吾しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句はおゝくその光におほはれとあれども、あるにはあらざらん。筋骨褒貶は歿後の論なるべし。

素行曰、 八九間空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。西華坊曰、この句に物語あり。去來曰、我も有。坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土藏の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九間もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、 續猿蓑 に、春の烏の畠ほる聲といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。去來曰、我はその秋の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九間の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。

十六日

今宵又なにかし鞍風にいさなはれていさよひのかけに小船を浮たれはかの數千の燈籠そのひかり水面につらなる

   いさり火にかよひて峯のとうろかな

      影照院

   蕎麥に又そめかはりけん山畠

十七日

明日はわかれむといふ。今宵人々につれたちて 諏訪の神 にまうつ。此みやしろは山の翠微におはして、石欄三段にして百歩はかり。宵闇の月もかけほのわたりて宮前の吟望いふはかりなし。

一は闇二は月かけの華表かな
   支考

山の端を替て月見ん諏訪の馬場
   卯七

山の端を門にうつすや諏訪の月
   素行

木曾ならは蕎麥切ころやすわの月
   雲鈴

たふとさを京てかたるもすわの月
   去來

十八日

  築後國

      柳 川

廿 日

   久留米

此日西与亭にいたる。亭のまへに川あり。さるは古歌にも詠じたる一夜川にて侍るよし、あるじのかたり申されしを、

   名月はふたつこそあれ一よ川

廿二日

   筑前國

この日宰府にいたる。久留米にありし時、日田の里仙きたる。是ら此地にいざなひ、この 天滿宮 に詣し(て)この時の風雅のまことをぞいのり奉りける。かくて連歌堂に宿してわがこゝろ猶あかず。曉の月に又詣し侍りて、俳諧の腸をかたむけ侍るに、機感たゞ胸にあつまりて、終に奉納の句なし。

廿四日

   博 多

此地に甫扇をとぶらふ。この庵は箱崎の松原につゞきて、世の住ところもつねにはあらぬに、かくてもあるべき所かなと、余所ながらまづおもひやられし。

   松原の葛とよまれし住ゐかな

廿五日

此日一知亭にまねかる。むかし第貮高遠この地にきたりて菊の歌をよみけん練酒は、今の俳諧なるを。

   ねり酒のやぶ入せばや菊の宿

廿六日

此日昌尚亭にまねかる。此あるじ落柿舎の去來いとこになむおはせば、そのこゝろをおもひ出侍りて、

   さびしさの嵯峨より出たる熟柿哉

廿七日

   福 岡

この日片雲堂にいたる。堂上に眸をさけば、箱崎の松原は東につらなりて、唐泊野古(カラトマリノコ)の浦浪もこゝもとちかくよせて、もみちやまの玉かき西にかゝやきたり。 されば、このところ、むかしはもろこしぶねも入つどひたりときけば、今の長崎のやうにや侍りけん。五里の濱といふ名は、此あたりすべて一觀の中なるべし。

   もろこしの菊の花さく五里の濱

   城外の鐘きこゆらんもみちやま

今宵は一日の俳諧に草臥て宵寢の宿からむといふに梅川のあるじぞ心ありける。その夜は殊に雨晴て風もひやゝかに、浪の音も障子のあなたなれば、早秋の苦熱も一夜わすれぬべし。

   夜着の香もうれしき秋の宵寢哉

廿八日

此前日洛の助叟きたる。共に和風のぬしにまねかれて市中の別墅にいたる。この日の殘暑たえがたきに暮に歸る。道すがらの江村の暮色よのつねならぬに、礒山に夕日のかゝりたるけしきを、

山は秋夕日の雲ややすあふき
   助叟

   鮠 釣

はぜ釣や角前髪の上手がほ
   支考

この前髪はあな一の時はにくけれど、一藝に名あれば世に又捨がたし。

四日

福岡を出て黒崎におもむく。道のほど十四五里もあるべし。箱崎の松原を過るほどは、かの松風も身にしむばかり、波のたちゐもいとくるしきに、心つくしのたびねとは、此時ぞ思ひあはせられける。その夜は何とかいふ處に宿して、夢もくるしき夜すがらにぞ有ける。

五日

黒崎、 沙明 亭にいたる。けふは殊さらに雨に降れ、駕籠にゆられて、人こゝちあらずまどひふして、あるじだにしらぬやどりなりしが、次の朝は心地つきて侍り。さてもはかるまじき世や。三とせばかりまちかけたる人のかくわづらひていりき給へるを、かほだに見ずやあらんと、我友水颯などいひていにけるといふをきけば、あるじの沙明と雲鈴にぞありける。さりや吾旅だちし日より、この所に此人々ありとたのみたるは、かゝるあはれを見られんと云物のおしえにや侍らん。

廿五日

此日駕籠にたすけられて、ふたゝび黒崎に歸る。是は水颯・沙明など枕がみになげき申されし、はじめの心ざしをつぐのはんとなり。

   駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲

       沙明亭

   生て世に菜汁菊の香目に月夜

       水颯亭

   脇息に木兔一羽秋さむし

三十日

この日黒崎をわかれて、小倉におもむく。人のわかれ・世の名殘は行脚のおどろくべきにはあらねど、今の別のかなしきは、病後のいたづきなきこゝろにや侍らん。

   菊萩にいつ習ひてや袖の露

七日

此日下の關にわたる。流枝亭に會して、おのおの病床つゝがなき事を賀せらる。

   しなでこそ都のあきも山つゞき

       泊船津

   船頭も米つく磯のもみぢかな

     壇 浦

此地は 平家の古戦場 にして、歌人詩僧もむなしう過べからず。さればやよひの花ちりちりに、金帯玉冠もいたづらに、千尋の底にしづめられしむかしのありさま、今なほ見るばかり、あはれふかし。

   鳥邊野はのがれずやこの浦の秋

世につたふ、この浦の蟹は、平家の人々の魂魄なりと。誠にその面人にことならず。をのをの甲冑を帶して、あるは眉尻さかしく、髭生ひのぼりていかれる姿、さらに修羅のくるしみをはなるゝ時なし。

   秋の野の花ともさかで平家蟹

阿彌陀寺 といふ寺は、天皇・二位どのゝ御影より一門の畫像をかきつらねて、次の一間は西海漂泊のありさま、入水の名殘に筆をとゞめたりと、この寺の僧の繪とき申されしが、折ふし秋の夕の物がなしきに、人はづかしき泪も落ぬべき也。

   屏風にも見しか此繪は秋のくれ

この寺の庭に老木の松ありて、薄墨の名を得たる事は、文字が關を此松の木間より見わたしたるゆへなりと、柳江・流枝などかたり申されしに、

   薄墨のやつれや松の秋時雨

      重 陽

   簔笠にそむきもはてず今日の菊

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