このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


菊に出て奈良と難波は宵月夜

大阪市天王寺区生玉町に生国魂神社がある。


生国魂神社


延喜式内社 である。

社殿右手の庭に芭蕉の句碑があった。


菊に出て奈良と難波は宵月夜

元禄7年(1694年)、 水田正秀 に宛てた書簡(9月25日付)にある。

芭蕉の顕彰と斯道の発展を記念します。

碑文は日展会友・教育書道の貢献者 後藤西香先生の書作です。

この句の前書は、師芭蕉と同行した支考の 『笈日記』 に記載され、元禄7年(1694年)9月9日、奈良より難波に到着し、「生玉の辺より日を暮して」と掲載されてます。

9月9日は、日本古来の五節句の一つで、重陽の節句日、生国魂神社の例祭日であります。天正13年(1585年)9月9日に現在地に遷座奉祝祭が斎行された日であります。

平成12年(2000年)9月9日 松本清一・仁孝 建立

芭蕉最後の旅であり、10月12日 南御堂 前花屋仁左衛門宅にて客死する。

井原西鶴像もあった。


 寛文13年(1673年)3月、 西鶴 は生玉神社南坊で「万句興行」を行った。6月、『生玉万句』刊。32歳の時で、当時は井原鶴永と名乗っていた。

 延宝8年(1680年)5月7日、西鶴は生玉神社南坊で「一昼夜四千句」を成就。この時の役人脇座十二人の中に秋田俳壇の始祖といわれる 桂葉 がいた。

 貞享元年(1684年)6月5日、 其角 を後見に招いて、 住吉神社 で2万3,500句を詠む。

 享保元年(1716年)9月9日、露川と門人燕説は西国行脚の帰途、生国魂神社を訪れている。

   節句の九日、難波に入て生玉 祭にあふ。

生玉に咲やこのはな菊祭
 居士


 明和8年(1771年)10月、 加舎白雄 は生玉神社に参詣している。

生玉へ参りつるに、なには人の打むれて、糸竹の遊び、冬ともわかぬありさまを見やりて、

 かれ蓮に人の心の小春哉

『須磨紀行』

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