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俳 人

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榎本其角

其角の句碑  ・  其角ゆかりの地

『五元集』

 江戸の人。本姓は寳井氏。榎本氏は母方の姓。別号宝晋斎、螺舎、狂雷堂、狂而堂。芭蕉の没後、日本橋茅場町に江戸座を開く。

晋其角者。武州江戸産也。生醫家醫術。終業俳諧。 寳井氏。號狂而堂。蕉門之一人而後起己一風。著俳書數篇

『風俗文選』 (許六編)

花月

    草庵に桃桜あり、門人に其角 嵐雪 あり

両の手に桃と桜や草の餅

『桃の実』

元禄5年(1692年)3月3日、桃の節句に詠まれた句である。

 寛文元年(1661年)7月17日、近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれる。

日本橋茅場町に 其角住居跡 がある。



 延宝2年(1674年)、14歳で芭蕉に入門。

其角は酒飲みとして知られている。

十五から酒をのみ出てけふの月


 天和3年(1683年)、 『虚栗』 を編集。

 貞享元年(1684年)2月15日、江戸を立って上京。

   二月十五日上京発足

西行の死出路を旅のはしめ哉


 貞享元年(1684年)6月5日、西鶴は 住吉神社 で大矢数俳諧。其角は立会人となる。

 貞享2年(1685年)5月、枳風を同伴して江戸を立ち、箱根木賀山の温泉に赴いた。 『新山家』

 貞享3年(1686年)春、門弟を芭蕉庵に集めて句会を催した。

 弥生も名残おしき比にやありけむ蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この一筋にうかびて、蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。晋子が傍侍りて山吹といふ五文字をかふむらしめむかとをよつけ侍るに、唯古池とはさだまりぬ。

『葛の松原』 (支考編)

 貞享4年(1687年)4月8日、母没す。

   四月八日母のみまかりけるに

身にとりて衣がへうき卯月哉
   其角

   初七ノ夜いねかねたりしに

夢に来る母をかへすか郭公
   同

   五七の日追善会

卯花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき
   芭蕉

   香消のこるみじか夜の夢
   キ角


 貞亨4年(1687年)10月25日、江戸深川を出て帰郷する芭蕉を其角は見送っている。

   芭蕉翁を見送りて

冬枯をきみか首途や花曇


 貞享4年(1687年)11月13日、『続虚栗』刊行。

 貞享5年(1688年)9月、上方へ旅立つ。17日、其角は 知足 亭に立寄り、晩に 荷兮 方へ。

天晴 江戸其角御こし。晩ニ荷兮方へ被参候。

『知足斎日々記』

貞享5年(1688年)9月30日、元禄に改元。

 元禄元年(1688年)10月2日、其角は 曲翠 と共に膳所水楼に遊んだ。

  同年10月20日、其角は加生と共に 去来 を訪ね、嵯峨を吟遊。

  同年11月27日、其角は加生と共に 尚白 亭を訪ねている。

  同年、関を訪れ 素牛 に会っている。

   関の素牛にあひて

さぞ砧孫六やしき志津屋敷


   其角にわかるゝとき

あゝたつたひとりたつたる冬の旅
    荷兮

天龍でたゝかれたまへ雪の暮
    越人


 元禄2年(1689年)、芭蕉は『奥の細道』に旅立つ。

さみたれや君かこゝろのかくれ笠


 元禄3年(1690年)4月、 『いつを昔』 刊。

 元禄3年(1690年)4月8日、母の四回忌に当たり追福の一夏百句を思い立つ。 『花摘』

身にとりて衣がへうき卯月哉

夢に来る母をかへすか郭公

『花摘』

母方の榎本姓を名乗っていたが、宝井と改める。

 元禄4年(1691年)、 俳諧勧進牒』 (路通編)、其角跋。

  同年7月、松山藩医青地彫棠は帰国。冬再び江戸に戻る。

  同年7月3日、 『猿蓑』去来 ・凡兆共編)刊。其角序。

  同年11月1日、芭蕉は江戸に到着。

   住捨てし 幻住庵 にはいかなる句をかのこされ
   けん。それはそれ、さて世の中をうけたまは
   るに

(バケ)ながら狐貧しき師走哉
   其角

かくれけり師走の海の鳰(カイツブリ)
   翁


 元禄5年(1692年)2月、 『雑談集』 刊。

 元禄5年(1692年)、 各務支考 は奥羽行脚。其角は旅立つに当たり句を贈っている。

支考遠遊の志あり、これにを(お)くるに、

白河の関にみかへれいかのぼり
   其角


  同年12月20日、松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠は芭蕉・其角・ 桃隣 ・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催した。

   壬申十二月廿日即興

打よりて花入探れんめつばき
   芭蕉

 降こむまゝのはつ雪の里
   彫棠

月にたゝぬつまり肴を引かへて
   晋子

 羽織のよさに行を繕ふ
   黄山

夕月の道ふさげ也かんな屑
   桃隣

 出代過て秋ぞせはしき
   銀杏


 元禄6年(1693年)5月、許六は木曽路を経て帰郷。其角は餞別の句を贈っている。

 元禄6年(1693年)8月29日、父東順72歳で死去。

 元禄7年(1694年)8月5日、『句兄弟』自序。

 元禄7年(1694年)9月6日、上方へ旅立つ。 『甲戌紀行』

  9月29日、芭蕉は病に臥す。
  10月11日、其角が来る。
  10月12日、芭蕉は 大坂南御堂 前花屋仁右衛門宅で死去。 「芭蕉翁終焉記」

 元禄8年(1695年)、『枯尾花』刊。

 元禄9年(1696年)正月、弟子素見・紫紅を連れて 出山寺 に遊ぶ。

其角の句碑


草茎をつつむ葉もなき雲間哉

 元禄9年(1696年)、芭蕉三回忌。

   芭蕉翁三回

しぐるゝや此も舟路を墓参


 元禄10年(1697年)、 『末若葉』 (其角編)刊。

 元禄11年(1698年)6月22日、其角は芝三田の新庵有竹居に移る。

 元禄11年(1698年)12月10日、有竹居火災に遭う。

 元禄12年(1699年)、 『皮籠摺』 (涼莵編)刊。其角序。

 元禄14年(1701年)、 『蕉尾琴』 (其角編)自序。

 元禄15年(1702年)12月13日、赤穂浪士討ち入り前夜に其角は四十七士の一人大高源五と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる。

年のくれ水のなかれも人の身も
   其角

あしたまたるる其のたから船
   子葉

英一蝶「其角・子葉邂逅図」

 元禄16年(1703年)7月13日、芝二本榎の 上行寺 へ墓参。帰途、 泉岳寺 前を通り、赤穂浪士の冥福を祈る。

 宝永2年(1705年)、荻生徂徠「記義奴市兵衛事」。

 姉が崎の野夫忠功孝心をきこしめされて禄を給はりたる事、世にきこえ侍るを

起きて聞け此ほととぎす市兵衛記


 宝永2年(1705年)、 園女 は其角を頼って江戸に出て、 富岡八幡宮 の門前に住む。

   寶晋齋 のもとに馬おりし侍りて

霜やけも不二の光の心まゝ
   その女

 有やなしやの蕪をふところ
   其角


 宝永3年(1706年)11月22日、其角の娘「みわ」が10歳で亡くなる。

   寳永三戌十一月廿二日、妙身童女を葬りて

霜の鶴土にふとんも被されず


 宝永4年(1707年)2月23日、 祇空 は其角を訪れて両吟。これが其角辞世の句となった。

ことし二月三十日はからすももとの泉にかへる倦情よる事なく夢のうちのゆめのことしまさに誹灯の光をうしなふ余多年莫逆のちなみをなすこの月廿三日宝晋斎に膝をいたき両吟もよほしけるに

   春暖閑炉に坐の吟とて

鴬の暁寒しきりきりす
   其角

 筧の野老髭むすふ儘
   同

若草に普請の御諚哉やらん
   清流

 浅黄しらへの匂ひかくれて
   同

一席亥の刻に晋子ねふたきけしきにてわかれぬこれそおさめの吟なり


宝永4年(1707年)2月30日、其角は47歳で亡くなる。

宝永4年(1707年)、其角の遺稿集 『類柑子』 刊。

門人に晋永機、藤井晋流、 稲津祇空 、常盤潭北がいる。

 芝二本榎の上行寺に其角の墓があったが、昭和38年に 上行寺 は伊勢原市に移転。

江東区森下の 長慶寺 にも其角の墓がある。

宝晋斎其角墓


「宝晋斎其角墓」は再建された。


東順の墓所 称往院 にも其角の墓が東順の墓と並んで建っていた。



大阪市浪速区元町の 鉄眼寺 に「宝晋翁之碑」がある。



其角の句

曙のよし原みする霞かな


我雪とおもへばかろし笠の上


 両国橋の舟に遊ひて

身にしむや宵暁の舟じめり


菓子盆に芥子人形や桃の花


まんぢうで人をたづぬる山ざくら


    内藤露沾 公の高閣に溜池を觀遊して

夏山に我は翠簾とる女かな


蘭の香に嚏まつらん星の妻


秋の空尾上の杉にはなれたり


池水も七分にあり宵の月

川筋の關屋はいくつけふの月


名月や畳の上に松の影


いつとろに袷になるや黒木うり


爰かしこ蛙啼く江の星の数


稲妻やきのふハ東けふは西


日の春をさすがに鶴のあゆみ哉


けしからぬ桐のひと葉や笙の声


鶯の身をさかさまに初音かな

夕すゝみよくそ男に生れける

稲妻やきのふは東けふは西

文月やひとりはほしき娘の子


   筑摩河

ちくま河春ゆく水や鮫の髄

   信濃へ参らるゝ人、暇乞せらるゝ
   餞に

梁の蠅をおくらむ馬のうへ

月を語れ越路の小者木曾の下女

   紅葉狩

切込て太刀の火を見む岩の霜


すひつさへ凄きに夏の炭俵


庖丁のかた袖くらし月の雲

白鷺の簔ぬぐやうに后の月

平家也大(太)平記には月も見ず


明星や桜さだめぬ山かつら


田植さて水茶やするがすみだ川

木母寺に歌の会あり今日の月

   弘福寺

木犀や六尺四尺唐めかす

露の間や浅茅が原へ客草履


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