このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
其角の句碑
草茎をつつむ葉もなき雲間哉
台東区清川1丁目の出山寺に其角の句碑があるというので、行ってみた。
其角の句碑
句碑はほとんど読めないが、説明が書いてあった。
其角の句碑
台東区清川1丁目13番地13号 出山寺
草茎をつつむ葉もなき雲間哉
碑の正面に室井其角の句を刻む。
其角の著
『末若葉』
によれば、これは元禄9年(1696年)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句であるという。
碑は、この風流の故事を顕彰して、寛政5年(1793年)に建立された。
其角
は、寛文元年(1661年)の生まれ。榎本ともいった。医師竹下東順の子、14、5才のころ、芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたという。天和3年(1683年)蕉風の先駆とみなされる
『虚栗』
を編集し、芭蕉の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。宝永4年(1707年)没。
なお、右側面に刻む「くさぐさの今にのこるや人の口 屠竜」は、姫路城主酒井忠以
(ただもと)
の弟であり、当時根岸に住んでいた画家
酒井抱一
の句である。
台東区教育委員会
「草茎」は「鵙の草茎」で、鵙の早贄
(はやにえ)
のこと。鵙は捕らえた獲物を木の枝先などに突き刺しておく習性を持つ。
元禄丙子のとしむ月末つかたに浅茅がはら出山寺にあそび侍り。畠中の梅のほづえに、六分斗なる蛙のからを見つけて、鵙の草莖なるべしと折とり侍る。
草茎をつつむ葉もなき雲間哉
『五元集』
出山寺に「采女塚」もあった。
采女塚
台東区清川1丁目13番地13号 出山寺
石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間(1661〜1672)新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に17才。翌朝、草刈りの人たちが
名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかがみが池にしずめば
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場1、2丁目と清川1、2丁目のあたりを指し、『江戸名所図会』によると、鏡が池の面積は、文政(1818〜1829)の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。
碑は、文化元年(1804年)
大田南畝
ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびている。
台東区教育委員会
文明18年(1486年)、道興准后は浅茅ヶ原で歌を詠んでいる。
あさちが原といへる所にて、
人めさへかれてさひしき夕まくれ浅茅か原の霜を分けつゝ
『廻国雑記』
其角の句碑
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