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俳 人

越智越人

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『鵲尾冠』

芭蕉十哲の一人。名古屋で染物屋を営む。別号、負山子。

 明暦2年(1656年)、越後に生まれる。

私は越路の者に候間、名も越人と申候。壯年に及ぶ比より故郷を出、流浪仕、貧乏にて學文など申事不存、


 貞享元年(1684年)、入門。

 貞享4年(1687年)、11月10日、芭蕉は 『笈の小文』 の途次越人を伴い吉田に泊まり、保美(渥美町)に 杜国 を訪れる。

 三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡(後)ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。

寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき

『笈の小文』

田原市の 潮音寺 に三吟句碑がある。



麦はえて能隠家や畑村
   芭蕉

冬をさかりに椿咲く也
   越人

昼の空のみかむ犬のねかへりて
   野仁

 貞亨4年(1687年)11月26日、 荷兮 宅で連句。 落梧 は芭蕉を岐阜に招いた。

同じ月末の五日の日名古やの荷兮宅へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の落梧といへる者、我宿をまねかん事を願ひて

凩のさむさかさねよ稲葉山
   落梧

 よき家続く雪の見どころ
   ばせを

鵙の居る里の垣根に餌をさして
   荷兮

 黍の折レ合道ほそき也
   越人


 貞亨5年(1688年)6月19日、芭蕉は 荷兮 ・越人・ 落梧 らと岐阜で連句興行。

   貞享三(五)戌辰林鐘十九日
   於岐阜興行

蓮池の中に藻の花まじりけり
   芦文

 水おもしろく見ゆるかるの子
   荷兮

さゞ波やけふは火とぼす暮待て
   芭蕉

 肝のつぶるゝ月の大きさ
   越人

苅萱に道つけ人の通るほど
   惟然

 鹿うつ小屋の昼はさびしき
   炊玉

真鉄ふくけぶりは空に細々と
   落梧

 かし立岨の風のよめふり
   蕉笠

 貞亨5年(1688年)7月20日、芭蕉は 荷兮 、越人と共に 竹葉軒 長虹和尚を訪れて歌仙興行。

粟稗にとぼしくもあらず草の庵
   翁

 藪の中より見ゆる青柿
   長虹

秋の雨歩行鵜に出る暮かけて
   荷兮

 月なき岨をまがる山あい
   一井

ひだるしと人の申ばひだるさよ
   越人

 藁もちよりて屋根葺にけり
   胡及

 貞享5年(1688年)、 「更科紀行」 の旅に同行。

 更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。

長楽寺 の越智越人随行塚


江戸に帰り、越人と両吟の俳諧。

   深川の夜

厂がねもしづかに聞けばからびずや
   越人

 酒しゐならふこの比の月
   芭蕉


享保2年(1716年)、 『鵲尾冠』 板行。

享保13年(1728年)10月、『庭竈集』 刊。

享保14年(1729年)11月、 『猫の耳』 刊。

越人の句

   さらしなには翁の句のみ吟了して

霧はれて梯は目も塞がれず


吹風に唇うるむ木槿かな


 別 僧

ちる時は心やすさよ芥の花


    酒落堂 にて

露萩もおるゝ斗(ばかり)に轡虫


君か代や筑广(麻)祀も鍋ひとつ


首だけや岡の華見る蚫とり

   須磨・あかしに三夜を賞して

名月の向ふ棧敷や須磨あかし


暁をむつかしそふに啼蛙


うらやましおもひ切時猫の恋


行としや親に白髪を隠しけり


ちからなや麻苅あとの秋の風


ちからなや麻刈あとの秋の風


さらしなやみよさの月見雲もなし


花にうすもれて夢より直に死ん哉

七夕よものかすこともなきむかし


夕月や杖に水なぶるすみだ川


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