このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
寒けれど二人旅寝ぞたのもしき
豊橋市湊町に湊神明社がある。
湊神明社に弁天池がある。
弁天池に湊築島弁天社がある。
天和3年(1683年)、弁財天を祀る。
国登録有形文化財
である。
国登録有形文化財
湊築島弁天社
湊築島弁天社は、単層、入母屋造、本瓦葺の三間堂で、正面に向拝、三方に擬宝珠高欄付の縁が巡っています。建築年代は、棟札から寛政7年(1795 年)と確認できます。
身舎
(もや)
内部は前後に二分し、外陣と内陣としています。床はいずれも板敷ですが、天井は、外陣が格天井(角材で碁盤目状に格子を組み、中に仕上げ板を張ったもの)、内陣は棹縁天井(天井板を棹縁で押さえて張る方法)と異なっています。
外陣は吹放ちで、格天井には吉田藩御用絵師の稲田文笠とその一門による四季折々の草木が描かれた絵が嵌め込まれています。また、この廻りの梁と桁には精巧な彫刻が施されています。
内陣は正面に格子戸をたて込み、背面に内々陣を突出させています。
江戸時代の遺構が非常に少なくなった豊橋中心部にあって、貴重な建物といえます。
豊橋市教育委員会
湊築島弁天社に「旅寝塚」があった。
越人と吉田の駅にて
寒けれど二人旅寝ぞたのもしき
出典は
『阿羅野』
。
參川の國いらこといふ所に、杜國といひし此道のすき人有、翁むかしよりむつまじくかたり給ひけるゆゑ、かの所たづね給ふ道すがら、霜月十日の夜よし田にて名古屋の
越人
を伴ひければ、
寒けれど二人旅寐ぞたのもしき
はせを
『如行子』
『笈の小文』
には「
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
」とある。
『笈日記』
には「
寒けれど二人旅寝はおもしろき
」とある。
昭和7年(1932年)、建立。
旅寝塚句碑
芭蕉翁貞享4年(1687年)芳野紀行の途次
越人
を伴い保美(渥美町)に
杜国
を訪れんと11月10日吉田に泊まる。句は、その夜の感慨を「寒けれど二人旅寝ぞたのもしき」と詠じたもの。昭和7年豊橋趣味の会一同、この句碑を立つ。
平成5年1月吉日 三河芭蕉会
山口誓子
は、この句碑を見ている。
寒いけれど、越人と二人で旅寝をしておれば、こころたのもしく、寒さをいとわずにおられるのだ。行く先に杜国のイメージを思い描けばなおさら。
句碑は昭和七年の建立。石はまだ錆びていないのに、「寒介礼と」などと万葉仮名で書いてあって、これからの時代には読み難い。
昔、吉田の大橋のもとから伊勢詣の舟が出た。「杜撰集」より嵐雪の文を引く。
「よしだの宿に日を暮たり。橋のもとまで行たれば、ふねにふねにとよぶ。いづかたへ乗ることぞときけば、参宮の道者、爰よりのれば、白子、川崎といふ所へ着く、くがには三日はやしといふ」
嵐雪
の乗った十反帆のその舟は、時化に会って、篠島に流され、湾に出て二見に向ったが、強風に伊良湖岬へ吹きつけられたりして難義した。
『句碑をたずねて』
(東海道)
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