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俳 人

安川落梧

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通称助右衛門。呉服商を営む萬屋の主人。

 貞亨4年(1687年)11月26日、 荷兮 宅で連句。落梧は芭蕉を岐阜に招いた。

同じ月末の五日の日名古やの荷兮宅へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の落梧といへる者、我宿をまねかん事を願ひて

凩のさむさかさねよ稲葉山
   落梧

 よき家続く雪の見どころ
   ばせを

鵙の居る里の垣根に餌をさして
   荷兮

 黍の折レ合道ほそき也
    越人


 貞享5年(1688年)、芭蕉は落梧の案内で 伊奈波神社 を訪れた。

芭蕉と落梧の連句がある。

   落梧なにがしのまねきに応じて、
   いなばの山の松の下涼して、長途
   の愁をなぐさむほどに

山かけや身をやしなはむ瓜はたけ
  ばせを

石井の氷あらふかたびら
  らくご

伝真蹟懐紙

芭蕉の句碑


山かけや身をやしなはむ瓜はたけ

 貞亨5年(1688年)6月、荷兮は岐阜に芭蕉を訪ね、落梧亭で三つ物。

   落梧亭


蔵のかげかたばみの花めづらしや
   荷兮

 折てやはかむ庭の箒木
   落梧

たなばたの八日は物のさびしくて
   翁

『笈日記』 (岐阜部)

 貞亨5年(1688年)6月17日、芭蕉は 荷兮越人 、落梧らと黒野の神山寸木を訪れて連句。

どこまでも武蔵野の月影涼し
   寸木

  水相にたり三またの夏
   芭蕉

海老喰ひにむれゐる鳥の名を問て
   荷兮

 ゑぼし着ぬ日のさらに楽也
   越人

懐を明てうけたる山ざくら
   落梧

 蝶狂ひ落欄干のまへ
   秋芳

「どこまでも」の連句碑


 貞亨5年(1688年)6月19日、芭蕉は荷兮・越人・落梧らと岐阜で連句興行。

   貞享三(五)戌辰林鐘十九日
   於岐阜興行

蓮池の中に藻の花まじりけり
   芦文

 水おもしろく見ゆるかるの子
   荷兮

さゞ波やけふは火とぼす暮待て
   芭蕉

 肝のつぶるゝ月の大きさ
   越人

苅萱に道つけ人の通るほど
   惟然

 鹿うつ小屋の昼はさびしき
   炊玉

真鉄ふくけぶりは空に細々と
   落梧

 かし立岨の風のよめふり
   蕉笠

同年夏、落梧は幼児を失った。芭蕉は追悼句を詠んでいる。

   子にを(お)くれける比

似た顔のあらば出てみん一躍り


その比ならん、落梧のぬし、お(を)さなき者を失へる事をいたみて

もろき人にたとへむ花も夏野哉
   翁

似たかほのあらば出て見ん一お(を)どり
   落梧

『笈日記』 (難波部)

 元禄2年(1689年)3月23日、芭蕉は落梧宛に手紙を書いている。

 野生、とし明け候へば又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候。みちのく・三越路(みこしじ)の風流佳人もあれかしとのみに候。

この手紙が『奥の細道』 出発の日付 確定に貢献した。

元禄4年(1691年)5月、『瓜畠集』の撰集中に没。享年40歳。

瓜畠集 是は落梧のぬし、かねて撰集の事思ひたゝれけるに、その志ならずして、すたれむ事をお(を)しみて、その方の人々此部の末に撰出し侍る。

『笈日記』 (支考編)

落梧の句


  亡人
初雁に行燈とるなまくらもと
   落梧


嫁ふりのうこき出けり今朝の穐


蜂の髭に匂ひうつらん花の蘂


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