このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

蕉 門

山本荷兮
indexにもどる

『阿羅野』  ・  『曠野後集』

 名古屋の医者。本名山本周知、通称は武右衛門、別号は橿木堂。「凩に二日の月のふきちるか」の句によって「凩の荷兮」と称された。

山本武右衛門、昌達、法橋ナル。橿木堂、こがらしの荷兮ト云ハルゝナリ。和歌にも物かの藏人、日頃の正廣、あくかれの兼與、白炭の忠知、さまざまあり。名古屋桑名町當代山本太市、なごや中丁成瀬侯ヨリ松平冠山公ヘノ來書也。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

○尾陽の荷兮を、此ごろ世に凩の荷兮といへるは、木がらしに二日の月の吹きちるか、といへる句よりいふ事なるべし。二日の月のぬしになりたる故にや。歌・連歌に物かはの藏人、日比の正廣、あくたれの兼与などいへるたぐひなるべし。

『桃の実』 (兀峰編)

 貞享元年(1684年)の冬、芭蕉は 『野ざらし紀行』 の途上名古屋に立ち寄り、土地の青年俳人を連衆として『冬の日』の巻々を興行した。
○尾陽の荷兮を、此ごろ世に凩の荷兮といへるは、木がらしに二日の月の吹きちるか、といへる句よりいふ事なるべし。二日の月のぬしになりたる故にや。歌・連歌に物かはの藏人、日比の正廣、あくたれの兼与などいへるたぐひなるべし。

名古屋市の 久屋大通公園 に「蕉風発祥の地」の碑がある。



狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
   芭蕉
 たそやとばしたる笠の山茶花
    野水
有明の主水に酒屋つくらせて
   荷兮
 かしらの露をふるふあかむま
   重五
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき
    杜国
 日のちりぢりに野に米を刈る
   正平

『冬の日』巻頭歌仙「木枯らしの巻」の表六句である。

 貞享3年(1686年)、『春の日』刊。

 貞亨4年(1687年)11月18日、荷兮は鳴海の 知足亭 に芭蕉を訪れて、歌仙。

   鳴海にて芭蕉子に逢ふ(う)

いく落葉それほど袖もほころびず
   荷兮


 貞亨4年(1687年)11月26日、荷兮宅で連句。 落梧 は芭蕉を岐阜に招いた。

同じ月末の五日の日名古やの荷兮宅へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の落梧といへる者、我宿をまねかん事を願ひて

凩のさむさかさねよ稲葉山
   落梧

 よき家続く雪の見どころ
   ばせを

鵙の居る里の垣根に餌をさして
   荷兮

 黍の折レ合道ほそき也
    越人


 貞亨5年(1688年)6月、岐阜に芭蕉を訪ね、落梧亭で三つ物。

   落梧亭


蔵のかげかたばみの花めづらしや
   荷兮

 折てやはかむ庭の箒木
   落梧

たなばたの八日は物のさびしくて
   翁

『笈日記』 (岐阜部)

 貞亨5年(1688年)7月20日、芭蕉は荷兮、 越人 と共に 竹葉軒 長虹和尚を訪れて歌仙興行。

粟稗にとぼしくもあらず草の庵
   翁

 藪の中より見ゆる青柿
   長虹

秋の雨歩行鵜に出る暮かけて
   荷兮

 月なき岨をまがる山あい
   一井

ひだるしと人の申ばひだるさよ
   越人

 藁もちよりて屋根葺にけり
   胡及

 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は荷兮の下僕を携えて 『更科紀行』 の旅に発つ。荷兮は餞別の句を贈っている。

   さらしなに行人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり
   荷兮


 貞亨5年(1688年)9月17日、 其角 は鳴海の 知足 亭から名古屋の荷兮亭へ。

   荷兮が室に旅ねする夜、草臥なを(ほ)せとて、
   箔つけたる土器出されければ

かはらけの手ぎは見せばや菊の花   其角


 元禄2年(1689年)、『阿羅野』(荷兮編)。

 元禄3年(1690年)、芭蕉は膳所で越年した。1月2日、荷兮宛書簡がある。

越人へ冬申達候。相届可申候。年始無恙哉。歳旦三つ物御家例可レ為と存候。おましの浦に波枕して、めづらしきとしをむかへ候。

      歳暮

    何に此師走の市に行くからす

      都の方をながめて

    菰を着て誰人ゐます花の春

撰集抄の昔をおもひ出候まゝ、如此申候。

 元禄3年(1690年)2月20日、 杜国 没。

     杜国 がいらこにしばらく住ゐしてほどなく身
    まかりけるに

 蛛(くも)のいのはかなや春の繩簾
   荷兮


 元禄6年(1693年)11月、 『曠野後集』 (荷兮撰)自序。

 巻頭に幽斎・宗因などの句を載せ、序文に「たゞいにしへこそこひしたはれるれ」と貞門俳諧を賞賛し、芭蕉から離れていった。

 元禄7年(1694年)5月22日、芭蕉は名古屋を訪れ荷兮亭で歌仙。

   荷兮亭

世は旅に代かく小田の行戻リ
   翁

 水鶏の道にわたすこば板
   荷兮

 元禄7年(1694年)、『ひるねの種』(荷兮編)。

一年芭蕉越路にいたり、古き名所を尋て、月の十句或人かたりけれど、過行年月の程経て覚束なし、耳の底纔にのこるを三四句しめしとゞめぬ。

   淺水橋
あさむつや月見の旅の明はなれ
   玉江
月見せよ玉江の芦を刈ぬ先
   湯尾
月に名を包ミかねてやいもの神
   燧山
義仲の寐覚の山か月悲し
   濱
月のみか雨に相撲もなかりけり

享保元年(1716年)8月25日、没。享年69歳。

 伊豆市原保に 妙泉寺 に「はせを翁」と刻まれた句碑があるが、「荷兮」の句の誤伝である。



はつきりと有明残る桜かな

荷兮の句

   剃 髪

西行の水にめしたくさくら哉


   僧の 路通 、おもひたつ心とゞまら
   ざりければ

さみだれや夕食くふて立出る


凩に二日の月の吹ちるか


   万句興行

見しりあふ人のやどりの時雨哉


   美濃にて 宗祇の藤 を尋(たづぬる)

其藤の古根や秋のやどり草


麦喰し雁とおもへど別れかな


鵜の面に篝(かがり)かゝりてあはれ也


凩に二日の月のふきちる歟


蔵のかげかたばみの花のめづらしや


こからしに二日の月の吹ちるか


しつや賎御階にけふの麦厚し


蕉 門 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください