このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

蕉 門

岡田野水
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名古屋の門人。呉服豪商で町役人。本名岡田行胤。通称佐次右衛門。

野水 岡田佐治右衛門、高津翁ト号ナス、尾州ナゴヤ大和町備前佐次右衛門、野水彦孫岡田尚興ト云、今ニ存ス。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 万治元年(1658年)、名古屋に生まれる。

 貞亨元年(1684年)、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した時に『冬の日』の歌仙に参加している。

名古屋市の 久屋大通公園 に「蕉風発祥の地」の碑がある。


狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
   芭蕉
 たそやとばしたる笠の山茶花
   野水
有明の主水に酒屋つくらせて
    荷兮
 かしらの露をふるふあかむま
   重五
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき
    杜国
 日のちりぢりに野に米を刈る
   正平

『冬の日』巻頭歌仙「木枯らしの巻」の表六句である。

 貞享3年(1686年)、 『春の日』 刊。

 貞亨4年(1687年)11月18日、荷兮は岡田野水と共に鳴海の 知足 亭に芭蕉を訪れる。

 荷兮岡田野水
 十八日
 桃青翁見廻ニ御こし
 そば切打はいかい有


 貞享4年(1687年)12月4日、芭蕉は蓬左の門人聴雪の亭に招かれて半歌仙。

四日はみのやの聽雪にとゞめらるゝその夜の會

筥根越す人も有らし今朝の雪
 はせを

 船に燒火を入る松の葉
 聽雪

五六十布網干せる家見えて
  如行

 拐むれつゝ葭の中ゆく
 野水

明るまでもどらぬ月の酒の醉
  越人

 蔀々を揚る盆の夜
  荷兮


 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉が 『更科紀行』 の旅に発つにあたり、野水は餞別の句を贈っている。

あき風に申かねたるわかれ哉

    越人 旅立けるよし聞て京より申つかはす

月に行脇差つめよ馬のうへ
 野水


 元禄6年(1693年)、 丈草 は故郷の犬山に帰る。 去来 は野水の案内で名古屋から犬山を訪れている。

 元禄7年(1694年)、芭蕉は野水のもとで句を詠んでいる。

   閑居をおもひ立ける人のもとに行て


涼しさはさし図に見ゆる住居(すまひ)
   仝

『笈日記』 (尾張部)

野水は 柳居 に句を送っている。

野水翁麦喰ひしの句を短冊に書て送しかは

何喰はぬ顔して居るや芦の鴈


寛保3年(1743年)3月、86歳で没。

野水の句

炭うりもひとへ桜のあるじかな


腹のたつ人にみせばや池の鴛


さりながらむめにはじまる月夜かな


一色もうこく物なき霜夜哉


文時が帋のそりやはなのはる


一色もうこくものなき霜夜かな


見るものと覺えて人の月見かな


麦喰し雁とおもへとわかれ哉


麦喰し雁とおもへと別れかな


麥喰し雁と思へとわかれかな


松明に山ぶき薄し夜の色


具足着て顔のミ多き月見舟

木からしもしはし息つく小春哉


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