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遠藤曰人
『蕉門諸生全伝』
(遠藤曰人稿)
文政年中(1818〜1830)、『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人 稿)。
去來
向井平二郎
亦
向井次郎太夫藤原兼時、肥前産、
父
益壽軒玄勝老人未子、筑紫ニテ長
ト
ナル。元舛トモ云へり。向震軒元端ノ弟ナリ。
兄
玄仲、長崎聖堂祭酒也。魯町ノ兄、千子女
ノ
兄、洛陽聖護院ニツカウ。嵯峨のゝ宮の邊に大家ヲ借、
落柿舎
柿木四十本
ト号ス。寶永元甲申九月十日、五十三歿、猿蓑 有磯海 砥浪山 渡リ鳥 花摘集選。湖東問答 四十七條導歌等選。
落柿舎ノ制札
一 且我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈をいふべからず。
一 雑魚寐には心得有べし、大鼾をかくべからず。
一 朝夕かたく精進を思ふべし、魚鳥を忌には非。
一 速に灰吹を捨べし、煙草を嫌にはあらず。
一 隣の据膳を待べし、火の用心にはあらず。
右條々
俳諧奉行
向去來
支考
曰、去來きせるそうぢのくせ也。屋敷守與平朝夕食を送る也。
妾ノ名在命尼
末ニ出ス、五條坂遊女ナリ。
鎧ヲ賣リテウケ出ス
丈草
ガ状アリ、士朗随筆
ニ
出。去來存生中ニ落柿舎こぼつ句あり。今ハサガ山本村弘源寺の跡
ニ
、安永年中
ニ
重厚
庵ヲ建テ舊跡ヲノコス也。
其角
幼名
源助、榎本氏、
榎下ハ母方ノ姓ナリト云。
寶井氏、竹下東順嫡子、醫業、寶晋齊・狂而堂・寶晋子・善哉庵・文合庵・六病庵・螺舎・雷柱子・渉川、畫名ハ薯子ト云、武州人、江戸産、茅場丁
ニ
住ス。貞享年中照隆町ヘ移住ス。嵐雪ト同居セルモ此頃也。元禄ノ頃、芝神明町ヘ移住ス。
本町甚左衛門丁にも居れり人別帳
庚申ノ夜家守ト口論其所
ヲ
立ノク、諸道具自ラ負テ嘲リ呼ビ去
ル
、雪中庵ヘ宅替ス。
日本橋鞘丁後ハ石町二丁目ナリ
徂徠翁ノ隣ヘ移ス。其時朗吟、梅咲や隣は荻生惣右衛門ト云句、
好文木ノ故事也。文ヲ會セヌ春ハ花不足ナリシトゾ。花文ニ徂徠ガ隣ユヘ我モ句者嘸梅喜ラント云心也
半面美人、冠里公ヨリ給ハル点印也。門人此印ヲ盗ミ取テ其角ガ來ル時、胡麻和
(アへ)
物ノ中ニ入テ与ヘシム。其角腹アシク思ヒ、日蓮自作佛ヲ持佛堂ヨリ盗出シ、佛ノ首ニ繩クゝリツケ、厠
二
ツルシ歸リケルトゾ。其角寺ハ二本榎木日蓮宗上行寺也。曰人、三度行
丸橋忠彌ガ石柱アリ、此寺泉岳寺ノ上山手也
寶永四丁亥年二月二十九日卒
曰人見ル石碑ニハ三十日トアリ
四十七歳没。深川長慶寺ハ門人共建處也。儒ヲ寛齊先生
二
學、醫ハ草刈先生
二
、詩ハ佐玄龍、畫、英一蝶、仰見銀河底
冠里公會中ノ會
二
有
二
金柑
一
無
二
銀柑
一
イカン答如
下
有
二
金國
一
無
二
銀國
上
其角
選集、誰家、新山家、虚栗、同續栗、句兄弟、蠹集、いつを昔、焦尾琴、若葉合、三上吟、類柑子、枯尾花、うら若ば。
翁ニ句ノ風調惡シキトテ勘當受、不和トナル。明星やの句を吐て翁ゆるしゐふ。雑談集曰、翁切字を入てまぎらかし、案ぜぬ句をして世にはいかいと云、切字なくとも案じて工夫すれば句也ト也。
嵐雪
服部氏、
幼名久馬助 久米助
井上相州公ニ仕頃ハ服部彦兵衛ト云。幼年ノ頃新庄駿河守殿
ニ
仕、後、井上河内守
相州公ノ事カ
殿
ニ
仕
ウ
。子有リ、梅松ト云、早世、俳名治助、今の名、嵐の庭の雪ならでの心也と。改名せんとすれど終始けり。雪中庵、不白軒、黄落庵、寒蓼堂、玄峯堂。妻ノ名を烈と云、嵐雪ノ反
(カへシ)
也トゾ。
嵐雪ノ名ヲ愚サトテ改メタガリシガツヰナヲザリニ止シト
世説曰
淡州小榎並村村ニ出生ス。幼名久馬助、服部久米助トハ違ウナルベシ、湯島天神鳥井ニ彫リシトチガフ異名也
江戸湯島
ニ
産トモ云ヘリ。妻、唐猫ヲ愛スアマリニ過タリ。妻ノ留守ニ盗ミ出シ、侘家猫ヲクレタル處
ニ
女房歸リ泣サケンデ呼、夫婦イサカヒ猫ノ爲
ニ
度々、隣家大笑トナリ、
猫の妻いかなる君のうばひ行
嵐雪妻
いさかひ笑れてよろこびを見よや初音の玉箒
嵐雪
。嵐雪禪學
二
入喝多シ。雪片山山埋、什麼孤峯白、濟雲方丈
ノ
門下、關西行脚歸リニヨレリトゾ
云
云。略文
ス
。師云參眼イカン、
答
觀音境裏古松樹
ト答
。師曰、松無古今色作麼生
ト
無
二
古今色
一
的ノ一句、雪進
テ
云、春色無
二
高下
一
、花枝自短長、
師云
領之休去
レ
、雲拜
シ
參堂
ヲ
退去。四十六歳卒、寶永丁亥四年十月十三日駒込常檢寺
ニ
墓有リ。其角家
ニ
居候
ニ
ナリテ死スト云ヘリ、柳隣庵國甫ガ言シ。是大風流のなす處ナリ。夫でこそ嵐雪ナルベシ。今ハ雪中庵嵐雪が爲に富めるもの多し、大徳タリ。
沼津
ニ
スミ六花庵
ト
云
東順
竹下氏、尾州之産也。元禄六癸酉年八月廿九日、七十二没、
其角
の父ナリ。東順妻妙務尼、貞享四年丁卯五十七才没、其角母也。始甚右衛門丁ニ居シ、人別帳今存ス、本町
ニ
在リ。今ハ新材木丁ガシ寶井五郎右衛門吉五郎ト云テソノ子孫アリ、道具商買ス。
丈草
内藤氏
幼名林之助
林右衛門、万治三庚子年誕生、兄弟八人、實母ハ丈草産ト死タリ。外ハ後妻の子七人也。九歳ノ秋
犬山西谷ニテ出生儀右衛門トモ云トカヤ
發句して笑はれにけりけふの月
熊野山先聖寺玉堂和尚ニ學ブ、黄檗宗也、無懐民一風ト名ク、又太忘軒ト別号アリ。蕉翁
ノ
深川ノ草庵エ初
而
文音
ノ
句
招けども届かぬ空や天津雁
廿五歳ノ秋八月五月、自
ラ
指ヲキツテ武門ヲ辭ス。
甲子仲秋五烏訛自指截斷指頭
截斷
二
指頭
一
大阿
ノ
劍。倶
ニ
低端的勢
イ
還
テ
瞞。血
ハ
流
テ
染出
ス
秋林
ノ
色。咲做空拳紅葉
ノ
看。
身をかくす浮世の外はなけれどものがれしものは心なりけり
。
此眞蹟犬山杉下九郎兵衛所持○粟津野ゝ人□書ケリ。
義仲寺ノ後龍が岡
レウガヲカト大津ニテトナへタリ
ニ庵室ヲ結ビ、佛幻庵、懶窩道人ト号ス。蕉翁遷化ノ後三年禁足、法華經ヲ石ニ書寫シ、寶永元年
甲申
二月廿四日没、年四十五、當主内藤官八郎
弟ノ家ナリ
代々知行百石、今文政五壬午迄百十九年。
右は成瀬侯臣尾州犬山、酒井佐四郎南窓
(※「王」+「民」)
古
ニ
、曰人直
ニ
聞ク。外ニ八人、荷兮・野水・杜國・越人
鶯笠ニモキク
、重五・露川・知足・史邦
荷兮
山本武右衛門、昌達
ト
号
ス
、法橋
ニ
ナル。橿木堂、こがらしの荷兮ト云ハルゝナリ。
和歌にも物かの藏人、日頃の正廣、あくかれの兼與、白炭の忠知、さまざまあり。
名古屋桑名町
ニ
住
ス
當代山本太市、なごや中丁
ニ
今
ハ
住
ス
。
成瀬侯ヨリ松平冠山公ヘノ來書也。
野水
岡田佐治右衛門、高津翁ト号ナス、尾州ナゴヤ大和町備前佐次右衛門、野水彦孫岡田尚興ト云、今ニ存ス。
重五
同上材木丁、後
ハ
宮宿
ニ
閑居ス。川方屋嘉右衛門、加藤善右衛門、隱居シテ彌兵衛
ト
号ス。其子簔笠
ハ
越人ノ弟子トナル。
露川
同本町
ナゴヤ傳馬丁下ル所
藤原市郎右衛門、商家
ニ
生
ル
伊賀國伊賀郡鷹山村ノ産、法名月窓居士ト号ス。
國府氏來書、成瀬氏來書
知足
平氏、尾張鳴海宿、千代倉、下郷金三郎、
幼名金三郎、勘左衛門
寂照軒ト号ス、叔皿庵、蝸亭、寶永元甲申年四月十三日卒、知足菴寂照湛然居士、五十回忌集ヲいらこ雲集ト云フ。
松が根に千代をあやかるのぎく哉
知足母
ちどりがけ集
、知足子蝶羅出ス、
成瀬來書
嫡子蝶羽、次郎太夫、習習軒順宗風和居士、寛保百石トナル。
嵐竹下□部仝□郎ト云
、嵐蘭ハ松崎文右衛門、井上侯ノ家長
(イエヲサ)家老ナリ
龍田天民翁の云也。
嵐雪同家ヨリ出也 天民ハ俗名平馬ト云
元禄六癸八月廿七日卒、四十六歳。
翁悼桑の杖短命トアリ可考
史邦
尾張寺尾土佐守、醫中村春庵。
杜國
壷屋庄兵衛、名古屋伊勢丁、萬菊丸岩菊丸トモ云、貞亨五年の春、よしの山
ニ
翁と行時の名也。名主役をする時上より下
ル
金有を遣ひ込、知らぬ顔に子
ニ
譲、勘定立ず、罪死に極る。餝屋
(墨消シ)
なればそこばくの金銀也。律處
評定ノ事
にて評定あるに、汝が句なるよし、
蓬莱や御國のかざり檜の木山
かゝる名句吐たる者死罪ならず、流罪被
二
仰付
一
と也。尾州篠島
ニ
流罪、三河渥美郡保見の里と云に來る。いらこ崎の邊也。
梅椿早咲牡丹保見の里 翁
眞筆ニハ
早咲つぼむ
トアリ。
中山ノ松原ニ墓アリ、一向宗、法名寂照居士ト号ス。
(曰人逢ヘリ子孫ノ詩也)
窓聽春風心鴨時。 折來梅帶月光枝。
草堂爲掃迎君處。 無恙年々對舊知。
文化丁卯春日詠梅 天遊靜書ス。
桃隣
天野藤太夫。太白堂・呉竹軒、後ハ桃翁ト云。本土伊賀上野、翁古朋友也。神田ニ居ス。享保四己亥十二月九日八十二歿。浅草光明寺葬。
許六
森川五助、百仲、羽官、五老井、菊阿佛、近州
亀城
、井伊掃部侯武士也家老黄栴即心即佛、馬祖非心非佛、孟那觀李由・ブン
(※「ブン」は、サンズイに「文」)
村・木導ヲ友トス。正徳五年乙未八月二十五日六十歳卒。寶永ノ末風俗文選ヲ撰了。篇突・木團・うた法師・滑稽傳・祕蘊□傳著、一草字藤
程已記アリ。
二楊揮豆
毛(※「ガン」=「糸」+「丸」)賦アリ。
三雲花園
ブン村銘アリ。
四紫芝岡
自讃、
翁滅後遺愛の櫻樹モ伐テ肖像を彫刻、智月ニ送る文、
十月十三日におくる。
江戸赤坂勤番ノ長屋
井伊侯
ニ、許六が部屋ニシタル處、翁モ行通ヒ給ふ。芭蕉柱ト云有、秋の暮の句翁書付給ふ處あり、其柱今寶藏ニ秘しおくと也。此人の古事世の知處略ス。今ハ跡絶タルガ如クニシテ親類ニアヅカリ、扶持方ヲ被下莟ミヲチルトカヤ。
支考
野盤子・瑟々庵、
ヨビニクキニテ
獅子庵ト云、見龍・東花坊・西花坊・蓮二坊、美濃産也、中頃伊勢山田ニ住ス。橘ノ庶流也。是佛房ハ先師ノ閨号也。寶永辛卯八月十六日自終焉記ヲ作、四十六
イニ七トモアリ。
卒。雲鈴一人外門人無トナリ。長崎ニテ俳人共唐音ヲ用ルヲ囀リ、ちやうちんヲ給るべしと云しにより、各唐音ヲ止しと也。
葛松原集
曰、
唐崎の松は花より朧にて
此句此坊主解せぬ
ニ
より、花の字なからましかばと書けり。大たわけもの也。支考如きの下手の處
ニ
遊、幽艶自在妙所
ニ遊、かれが如きの下手の膽ニ入べきや。花の字なくば、句
ニ
非、大ばかもの也。ゆへに支考が書たる俳書一冊も用
ニ
立ず、正風のはいかい、かれが如きの短才にて出るものならず、可笑可笑可笑。かれが集何レも愚痴にて大毒也。再び手
ニ
とるべからず、後世翁の妙所世に傳はらず、志やすき下々段の俗俳のみ傳ふもかれが爲也。
利牛
池田氏、利兵衛
此名しからず。
江戸の人、
炭俵
。三井家支配人、二十四万石松平土佐守殿足經ト云ヘリ。
尚白
江左氏、名ハ三益、木翁、江州大津人、始不卜ノ門人也。享保七年七月十九日歿。七十三歳。奇絶作者、輕ミヲよくす。
野坡
志太氏、俗名彌助、淺生庵・樗木舎、儒学
ニ
達
ス
。越前商家
ニ
生レ江戸
ニ
居ス、三井番頭也ト云、老後西海日向
ニ
テ死
ス
。
箱崎ニテ野坡が塚ヲツクト云
野翁
ト
云、老後先師ノ無名庵ヲ高津野
二
移ス。高津の翁ト号ス。元文五庚正月三日七十八歳。野坡句集アリ。翁ノ碑銘野坡文ナリ、出藍名人、はせを翁の連句第一ニテ此叟ノ上ニ立モノナシ。國甫云、淺生庵玄孫ハ、大坂うつぼ住百屋久兵衛、
俳名
八丘。
越人
佐分利勘左衛門、肥後熊本馬廻リ廣間番、佐分利流之槍術家也、
別家也。
細川越中守殿近習也。好色人ニテ吉原遊女ヲ請出シ、屋敷
ニ
置がたく改易せらる。
羨し思切時の句あり。
尾州從弟
ノ
知行所知多ト云處
ニ
ユカリヲモトメ行カクレ住ム。
鳰のうき巣の句あり。
尾張野水之輩不便也トテ、紺屋ノ株ヲ世話ヤキニテ、名古屋伊勢町杉ノ丁
クワナ丁ナリ
ト云處ニ菱屋重藏ト名ヲ改メ、染物ヲ以身過トス。サシタル咎ナラネバ槍ノ家ナレバ召かへされタリ。三年御暇ヲ延被下ト願、染物借貸ヲ片付歸國ス。越中ノ守ノ越ノ字ヲハゞカリ、越人ヲ改メ蕗碩ト改ム。三年ト云時
ニ
死ス。流長院ニ墓アリ、不猫蛇
(※「虫」+「也」)
集ヲアラハス。ナゴヤ入江丁本通西へ入寺ニハカアリ。成瀬來書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ。
鶯笠
談也。
(晋風曰、此説大ニ誤レリ、越人は越智氏、佐分利氏ニ非ズ、又熊本ノ士ニ非ズ、北越ノ人、名古屋ニ於テ享保ノ末年歿セルナリ。鶯笠即チ鳳朗ノ誤リ傳ヘタルモノゝ如シ。)
涼兔
伊勢ノ山田神職ナリ、始、團友齋ト号ス。辭世
合點じや其曉の時鳥
末期目を開き 一句
カク
(※「病ダレ」+「鬲」)ノ
症を患テ死す。
今迄ハ人の病ぞと思しにわが身の上にかくの仕合
。姫路の寒鴻と云モノ所持ナリ。
乙州
江州大津の人、智月尼ノ子。弟後子トナル。父佐右衛門病死ノ後問屋役ヲうけつぐ也。
孤峯來書。
凡兆
始ハ加生ト云、妻とめ女
尼、後ニ羽紅ト云
、
いつを昔
、
次郎を夫の迎にやるとて
我子ならともにはやらじ夜の雪
加州の産也醫師也。大やましもの
ニ
而、相手をもとめわるい事をしてあらはれ、米倉にてクビクゝリ、又洛
ニ
居、一事
ニ
罪セられテ終所ヲ不
レ
知、賀州罪アル人ニ親ミ其連累
ヲ
ウク。獄中
ニ
年を明して
猪の首のつよさよ梅の春 陽炎の身にもゆるさぬ虱かな
。無レ咎事上天に通じ、ゆるされて獄中を出たり。世を淺ましと思、亡名し、行方知レズナリヌ。末ニハ大坂ニ住ス、越野阿圭ト改名ス。又すべてケ様ノ人翁禁じ給へり。伊藤信徳曰、翁曰、孝悌忠信より出たる風流、本旨本情のはいかい也トカヤ。曰人云、誠心動
二
鬼神
一
、天感じて枯田に雨を降らし給ふ。悪事を心にふくみ、はいかい斗よくしたりとも甚天にくみ給ふ。万人にくむ、後世猶にくむ、恐るべし恐るべし。
杜國
が罪ハかろし。罪ハバハン
蘭名
ぬけ船
和名
ト云ヘリ、士朗が方より申こしたり。
土芳
伊賀上野人、服部半左衛門保英、始ハ芦馬ト云、蓑虫庵ト号ス。後ニ些中庵ト改ム、享保十五年庚戌年正月十八日卒、長田庄西蓮寺ニ葬。
國府來書
智月
智月尼ハ江州大津驛乙州が母也。佐左衛門妻ナリ、傳馬役也。生國山城宇佐の産、若年ノ頃何レノ御所ニカ御局ニ宮仕ス。歌路ト云ヘリ。
哥治也。
曾良
河合氏、惣五郎ト云リ、宗悟トナル。信州諏訪ノ産、商家ナリ、今
ニ
家アリ、東武翁ト隣ル、薪水ヲ助ク。一人ノ老母在リ、劒術指南ス。門人方老母ヲ扶持して奥行脚ヲ頼と也。曰人云、此事ウタガハシキ事ナリ、信州ニ家今ニアリ。曾良ハ壹岐松本ニテ死ス、元禄寅年五月廿二日卒、
又巳十月廿二日トモアリ。
信州素檗より五月ナリト云ヲコセリ。曾良日記、
若人
スワ家來久保島久左衛門也
持傳フ
素檗
が妻ハ曾良ノ家ヨリ來ル、素檗ヨリ翁の眞跡ヲ曰人
ニ
贈レリ。深川庵より二見形文臺、二見形硯箱、色紙廿枚曾良持來、方々へクレ、四枚ノコル、曾良碑
松島
へ曰人書テタテタル禮ニ一枚送ル、一枚近江ノ和翠ニ与フ。
(晋風曰、曾良歿年誤レリ。寶永七年五月二十二日壹岐ニテ客死ス、享年六十二ナリ。)
沾圃
寶生太夫、京亂舞能ノ家也。馬
(※草冠に下に「見」)
ハ二男カ。嫡、俳名里圃、立圃ノ近親甥カ、孫ナリト云ヘリ。
卓袋
いが國いせや与兵衛、
ゼゝノ
町人。
正秀
伊勢屋孫右衛門
刀さす供も連レたし今朝の春 藏燒てさはる物なしけふの月
路通
始乞食、翁ノ爲
ニ
俳人