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蕉 門

太田白雪 桃先・桃後
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三河新城の富商で、庄屋。名は長孝。通称は金左衛門。

白雪 不知 三州新城。太田氏金左衛門、三河小町集出ス。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 寛文元年(1661年)、新城豪商太田弥平太重長の四男として生まれる。

 元禄4年(1691年)閏10月23日、芭蕉は白雪に案内され 鳳来寺山 に登山した。 天野桃隣各務支考 、白雪の子桃先・桃後らがこれに従った。

鳳来寺仁王門


芭蕉から白雪の長男重英と次男孝知に「桃先」、「桃後」の俳号が与えられた。

   新城はむかし阿叟の逍遥せし地也。なにがし
   白雪 といふお(を)のこ、風雅の子ふたりもち侍る。
   二人ながらいとかしこくぞ侍る。阿叟もその
   少年の才をよみして、是を桃先・桃後と名づ
   け申されしを、支考も名の説かきてとゞめけ
   る也。

其にほひ桃より白し水仙花
   翁

   是は水仙の花を桃前桃後といへるより、かく
   はいへるなるべし。

しのぎかね夜着をかけたる火燵哉
   桃先

節季候のはりあひぬかす明屋哉
   桃後


 元禄12年(1699年)、 支考 は新城を訪れ白雪と歌仙。

      新城

   風の香の出かけや軒の菖蒲草
   白雪

   長者夫婦のむかしたちはな
   支考

   小僧まて馳走のうへに寐ころひて
   露川

   一里の中に見ゆる砂川
   桃先

   豆畑の痩て乏しき秋のかや
   雪丸

   また新蕎麥の湯もからぬ也
   扇車

   毛氈はとなたのこさるけふの月
   桃後

   すへて伏見はこひた風俗
   白紙


 元禄16年(1703年)5月26日、魯九は白雪 の添状を持って 千代倉家 を訪れている。

 享保12年(1727年)8月7日、白雪は 千代倉家 を訪ね泊まっている。

八月七日 晴天 三州新城白雪子来り泊ル。

八月七日 晴天 白雪子戻る

『千代倉家日記抄』(蝶羽日記)

享保20年(1735年)6月7日、75歳で没。

安心は病が上の極書かな

菩提寺永住寺に白雪像と句碑があるそうだ。

三河白雪 閑居調度ある中に此一物は殊更老のねさめをたすくる物なれは寵愛もさそ深かりけんと思はるゝにいと哀也

今からはひとりくらしや竹婦人


白雪の句

草鞋ながらまづ清水の花見哉


なはしろに去年の案山子と見え(鳧)


子をうんて猫かろけなり衣かへ


子をつれて猫も身がるし更衣


うくひすの野梅ははやしさんさ笠


五月雨やまた一しきり猫の戀


山雀の扶持はなされか梅の花


蓮の葉や心もとなき水はなれ


白雪父子の句

  三河
鶯の相手をかえて椿かな
   白雪

竹の月鶯藪と見立けり
   桃後

すむ月に垢のぬけたりけしの華
   桃先


眞直に雨の降來る柳かな
   桃後

よき月の隱れて居たる青田かな
   桃先


   白雪
四五本の松を小楯や雉子のこゑ
   桃先
疵のつく木末木末や秋の風
   桃後
節季候の拍子をぬかす空家かな


   三河

壱兩の金かうはしき牡丹哉
 太田金左ヱ門
 白雪

せき一つせひてもきへす夜半の霜
 同   又四良
 桃先


  三河
濱千どり緞子の夜着に聞く夜哉
   白雪

爐の炭を啼きほそめたる千鳥哉
   桃先


桃先の句

子共のと見えていくつも切籠哉


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