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俳 書

『炭俵』(野坡・孤屋・利牛共編)


志太野坡・小泉孤屋・池田利牛共編。俳諧七部集のうち唯一江戸の撰集。

野坡 は越前出身。両替商三井越後屋の番頭。孤屋・利牛は越後屋の手代。

利牛 池田氏、利兵衛此名しからず。 江戸の人、炭俵 。三井家支配人、二十四万石松平土佐守殿足經ト云ヘリ。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

元禄7年(1694年)閏5月3日、素龍序。

 同年6月28日、『炭俵』刊。

 同年10月12日、芭蕉没。

 柏木素龍は阿波徳島の人。元禄5年(1692年)、江戸に下向。能書家で、芭蕉の『奥の細道』を清書したことで有名。

正徳6年(1716年)3月5日、没。

ひと日芭蕉旅行の首途に、やつかれが手を携えて再会の期を契り、かつ此等の集の事に及て、「かの冬籠の夜、きり火桶のもとにより、くぬぎ炭のふる哥をうちずしつるうつりに、「炭だはらといへるは誹也けり」と独ごちたるを、小子聞をりてよしとおもひうるとや、此しうをえらぶ媒と成にたり。この心もて宜しう序書てよ」と云捨てわかれぬ。

元禄七の年夏閏さつき初三の日   素龍書

俳諧炭俵  上巻

むめがゝにのつと日の出る山路かな
   芭蕉

   處々に雉子の啼たつ
    野坡

   春之部發句

   立春

蓬莱に聞ばや伊勢の初便
   芭蕉

   洛より文のはしに

朧月一足づゝもわかれかな
    去来

大はらや蝶の出てまふ朧月
    丈艸

   深川の会に

長閑さや寒の残りも三ケ一
   利牛

   鶯

うぐひすにほうと息する朝哉
    嵐雪

   柳

障子ごし月のなびかす柳かな
   素龍

五人ぶちとりてしだるゝ柳かな
   野坡

傘に押わけみたる柳かな
   芭蕉

   花

   うへのゝ花見にまかり侍しに、人々幕打さは(わ)
   ぎ、ものゝ音、小うたの声さまざまなりにける。か
   たはらの松かげをたのみて

四つごきのそろはぬ花見心哉
   芭蕉

あだなりと花に五戒の櫻かな
    其角

   上巳

青柳の泥にしだるゝ塩干かな
   芭蕉

   夏部之發句

   首 夏

塩うをの裏ほす日也衣がへ
    嵐雪

   うの花

卯の花やくらき柳の及ごし
   芭蕉

ほとゝぎす一二の橋の夜明かな
   其角

うのはなの絶間たゝかん闇の門
    去来

   旅行に

うの花に芦毛の馬の夜明哉
    許六

   郭公

木がくれて茶摘も聞やほとゝぎす
   芭蕉

時鳥啼々風が雨になる
   利牛

   麦

   翁の旅行を 川さき まで送りて

刈こみし麦の匂ひや宿の内
   利牛

   おなじ時に

麦畑や出ぬけても猶麦の中
   野坡

   おなじこゝろを

浦風やむらがる蠅のはなれぎは
    岱水

するが路や花橘も茶の匂ひ
   芭蕉

      此句は嶋田よりの便に。

   木曾路にて

やまぶきも巴も出る田うへ(ゑ)かな
   許六

俳諧炭俵  下巻

   穐之部

秋の空尾上の杉に離れたり
    其角

名月や椽(縁)取まはす黍の虚(から)
    去来

七夕やふりかはりたるあまの川
    嵐雪

盆の月ねたかと門をたゝきけり
    野坡

   朝 顔

   閉関

朝顔や昼は錠おろす門の垣
   芭蕉

   草 花

宮城野の萩や夏より秋の花
    桃隣

   なには津にて

芦のほに箸うつかたや客の膳
   去来

相撲取ならぶや秋のからにしき
    嵐雪

庖丁の片袖くらし月の雲
    其角

くる秋は風ばかりでもなかりけり
    北枝

   冬之部

   芭蕉翁をわが茅屋にまねきて

もらぬほどけふは時雨よ屋根
   斜嶺

   大根引 と云ふ事を

鞍壷に小坊主乗るや大根引
   芭蕉

   冬の夜飯道寺にて

杉のはの雪朧なり夜の鶴
    支考

寒菊や粉糠のかゝる臼の端
   芭蕉

御火焼の盆物とるな村がらす
   智月

   芭蕉よりの文に、くれの事いかゞなど在し其かへ
   り事に

爪取て心やさしや年ごもり
   素龍

雪の松おれ口みれば尚寒し
    杉風

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