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俳 人

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服部嵐雪

『其袋』  ・  『杜撰集』

淡路出身の武家。名は治助(はるすけ)。通称、彦兵衛。別号、雪中庵。玄峯堂。

嵐雪者。服部氏。不何許人。業風雅。遊武江戸。蕉門之高弟也。後別妻出家。

『風俗文選』 (許六編)

 承応3年(1654年)、淡路国三原郡小榎並村に生まれる。

 延宝元年(1673年)、芭蕉に入門。

 貞亨4年(1687年)正月、芭蕉は嵐雪に贈られた小袖を着て句を詠んでいる。

嵐雪が小袖をまゐらせしを、やがて着給ひて、

 誰やらが姿に似たり今朝の春

『芭蕉翁略伝』 (湖中編)

 貞亨4年(1687年)秋、芭蕉は嵐雪に画賛を望まれて句を詠んでいる。

初秋納涼の夕、嵐雪 が畫賛を望まれ給ひて、

 あさがほは下手の書さへあはれなり

『芭蕉翁略伝』 (湖中編)

 貞亨4年(1687年)、芭蕉が『笈の小文』の旅に出るにあたり嵐雪は句を詠んでいる。

木がらしの吹行うしろすがた哉


 元禄3年(1690年)6月、 『其袋』 (嵐雪編)自序。

 元禄3年(1690年)10月、 鬼貫 は江戸に入り嵐雪亭に宿る。

 元禄4年(1691年)冬、芭蕉は「奥の細道」に旅立って以来2年半ぶりに江戸に帰ってきた。

 元禄5年(1692年)3月3日、桃の節句に詠まれた句がある。

      富花月

   艸庵に桃櫻あり
   門人に キ角 ・嵐雪 有

両の手に桃とさくらや草の庵
   芭蕉翁

『桃の実』 (兀峰編)

 元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大阪で亡くなる。10月25日、嵐雪は 桃隣 と共に江戸を出て義仲寺に向う。

 江戸蕉門の 杉風其角 、嵐雪、史邦等は芭蕉を偲び、芭蕉の落歯と芭蕉自筆の「世にふるも更に宗祇のやどり哉」の短冊を 長慶寺 境内に埋め、塚を築いた。

芭蕉時雨塚


 元禄11年(1698年)、 惟然 は江戸に入る。

   行脚惟然に遣しける

木の朶にしばしかゝるや紙鳶(いかのぼり)


 元禄12年(1699年)、嵐雪は箱根 早雲寺 の宗祇の墓前で「石塔を撫でてはやすむ一葉かな」の句を詠んでいる。

早雲禅寺


 元禄13年(1700年)、嵐雪は江戸から東海道を行き、吉田から舟で伊良古崎を経て伊勢に参詣、京へ行って都を見物している。 『装遊稿』

 元禄13年(1700年)、除風は浪花から船に乗り明石に渡る。嵐雪は餞に風呂敷を贈っている。

   浪花より船にのりて明石にわたる乘合あまたにて

みしか夜を皆風呂敷に鼾かな
   除風

   除風行脚のはなむけにふろしきをくるとて

芝に寐は此風呂敷や枕蚊屋
   嵐雪


 元禄14年(1701年)、 『杜撰集』 (嵐雪撰)刊。

宝永4年(1707年)10月13日、嵐雪没。

一葉散り咄一葉散風の上

 宝永5年(1708年)11月、嵐雪一周忌追善集『東遠農久』(百里編)刊。神叔跋。

東京都豊島区の 本教寺 に嵐雪の墓がある。



墨田区の 要津寺 に供養塔がある。

嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養塔


寛延3年(1750年)、 『玄峰集』 (旨原編)。

文政6年(1823年)10月、山崎碩茂は 芭蕉の句碑 を建立。



旅人登我名呼れ無者津時雨

嵐雪の句も刻まれている。

梅一りん一輪ほどのあたたかさ

愛知県犬山市の 尾張冨士大宮浅間神社 に嵐雪の句碑がある。



梅一輪一輪ほどのあたたかさ

長野県坂城町の会地早雄神社の 芭蕉付句塚 にも嵐雪の句が刻まれている。

芭蕉付句塚


散花に垣根を穿つ鼠宿

元禄6年(1693年)1月、「蒟蒻に」歌仙である。

埼玉県本庄市の 安養院 に「三俳人句碑」がある。



酒買に行くや雨夜の雁一ツ
    其角
ふとんきて寝たる姿やひがし山
   嵐雪
はつれはつれ粟にも似たる薄かな
    その女

 栃木県芳賀郡益子町にある 春日神社 の手水鉢らしきものに「芭蕉」と書かれた句が刻まれている。

角力取ならふや秋のから錦

誤伝で、嵐雪 の句であるようだ。

春日神社


 栃木県芳賀郡益子町の旧家にある 芭蕉の句碑 の裏に嵐雪 の句が嵌め込まれている。


花に風かろく来て吹け酒の泡

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