このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉ゆかりの地


ふる池や蛙飛こむ水の音

JR総武線両国駅東口を出て、清澄通り沿いに歩く。

竪川を越えると、墨田区の外れに要津寺がある。


要津寺


臨済宗妙心寺派 の寺である。

雪中庵関係石碑群

 雪中庵とは芭蕉三哲の1人である 服部嵐雪 (1654−1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ 大島蓼太 は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781−1789)の俳諧中興期には拠点となりました。 当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。

宝永4年(1707年)10月13日、嵐雪没。
享保17年(1733年)、桜井吏登は雪中庵を継承。
延享4年(1747年)、吏登は雪中庵を蓼太に譲る。
宝暦5年(1755年)6月25日、吏登没。

   悼吏登翁

六月を經帷子に名殘かな


嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養塔


   一周忌 畫像前

秋またぬ人のもぬけを泣日かな

   三廻忌

似た人もなき六月の紙子哉


芭蕉翁俤塚(おもかげづか)


宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立した。

   芭蕉庵

百回忌を七十年の今日にまねきこして深川要津寺に俤塚建立の折から、西上人の花の陰にて我死んと詠ぜられしを思ひ出て

我ねがふ小春の望や十二日


 蓼太が夢中に芭蕉の亡母の面影を見て画像を描き塚に埋めたというが、分からない。

深川六間堀東光山要津寺中

俤墳

碑陰

 宝暦十三年癸未十月十二日 雪中庵門人建

みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや

雪中庵蓼太

碑石左 翁百回忌発句塚 雪中庵建之 雪中庵嵐雪居士 雪中庵吏登居士

安永五丙申年六月建之


『芭蕉庵再興集』


 明和8年(1771年)に大島蓼太が芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集 『芭蕉庵再興集』 所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)

(学習院大学蔵)

明和8年(1771年)5月5日、諸九尼は再建された芭蕉堂を訪れている。

 五日 雪中庵の再建ありける深川の芭蕉堂にいざなはれて、

   葺きかへて今やむかしのあやめ草


明和九年四月廿五日、深川はせを庵再興成就の日、吏登翁十七回忌をまねきこして

取こして牡丹を蓮のうてなかな


芭蕉の句碑


ふる池や蛙飛こむ水の音

 安永2年(1773年)4月12日、大島蓼太が建立。深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和(しんな)の筆。現在 江東区芭蕉記念館 庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。

亀田鵬斎 は三井親和に書を学ぶ。

『諸国翁墳記』 に「古池塚 江戸深川アリ 雪中庵門人普成建」とある。

蛙塚

ふる池や蛙飛こむ水の音

碑陰

      雪
 雪は古池に和して水音をつたへ月の一灯花の清

 香もをのつからなる此翁の徳光をあふくのみ

白妙の雪より出たり後夜の月
   夜雪庵普成

夕汐やのほれは月のみやこ鳥
   雪杉庵亀成

うつろひしうつろひしとて散花か
   玉雪庵子交

   安永二癸巳四月十二日

 深川親和七十三歳書


安永9年(1780年)4月8日、 蝶夢 は雪中庵を訪れている。

青松寺・愛宕社えも登り、はては武蔵・下総の境なる両国橋わたり、深河の雪中庵、また泰里の隠家をもたづぬ。


芭蕉翁百回忌発句塚碑


(いしぶみ)に花百とせの蔦植む   雪中庵蓼太

天明2年(1782年)4月8日、 筑波庵翠兄 建立

天明7年(1787年)9月7日、蓼太没。

蓼太の墓碑


雪上加霜」と刻まれている。

文化5年(1808年)8月、多賀庵玄蛙は雪中庵を訪れている。

   深川の芭蕉菴にまねかれて

名月をうしろに庵の曲突かな
 玄蛙


『埋木の花』


 明和8年(1771年)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826年)に平一貞がその著『埋木(うもれぎ)の花』に実見記録したもの。

同所要津寺門前 はせを庵 当時庵主 迪斎

 翁七十回の時雪中庵蓼太建之
 園中草堂あり肖像安置す庵裡
 翁自画文台一脚
 翁ト杜国両筆の紀行一帖
 嵐蘭追悼の真蹟
 等蔵之猶俤塚集委し

芭蕉堂


四世雪中庵 完来 から十四世双美までの円形墓碑


旧新大橋跡 へ。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください