このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

落柿舎〜碑巡り〜
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京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町に 落柿舎 (HP)がある。


明和7年(1770年)、 蝶夢 門下の 井上重厚 が再建。

以前 はあまりに人が多くて入れなかった。

今日は人も少ないので、入園してみる。

柿木と紅葉


落柿舎内部


去来 の句碑


柿主や梢はちかきあらし山

安永元年(1772年)、 井上重厚 建立。

洛中第一に古いとされる句碑だそうだ。

落柿舎外部


芭蕉の句碑


五月雨や色紙へぎたる壁の跡

元禄4年(1691年)5月4日、芭蕉が 『嵯峨日記』 の最尾に記した句。

『笈日記』 (支考編)に「色紙まくれし」とある。

虚子の句碑


凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり

昭和34年(1959年)、建立。

生前最後の自筆句碑で、破調吟としてよく知られているそうだ。

山口誓子 は落柿舎に句碑を訪ねている。

 落柿舎の前は苗代田だった。

 門を入って、ずんずん進んで、芭蕉の句碑の前に立った。横伏しの自然石。

   五月雨や色紙へぎたる壁の跡

 元禄四年、芭蕉は去来のこの別荘に来て滞在、「嵯峨日記」を書いた。五月四日、落柿舎を出でんとする前日、名残を惜しんで部屋々々を見廻ってこの句を書き入れている。

 句碑は昭和三十七年建立。書は新しく、書はまだ石に定着していない。

 その左隣に虚子の

   凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり

の句碑が立っている。御影石の背の高い句碑だ。

 去来の小さい墓に詣でた句である。「凡そ天下に去来程の小さき墓に」は「凡そ天下に去来の墓ほどの小さい墓はないが、その小さい墓に」と云うのだ。乱調甚だし。明治四十一年の作。

 境内に去来の句碑もある筈だ。それをやっと探し当てた。私が芭蕉の句碑へ早く行こうとしてずかずか歩いていたとき、通り過ぎた石が去来の句碑だった。足許に隠るるばかり低い石だったのだ。自然石に

   柿主やこずゑはちかきあらし山

 この句は、去来が元禄二年に書いた「落柿舎記」の末尾に記されている。

 「風俗文選通釈」に「あらし山の近ければ落つるとの心なるべし」と書かれている。柿の落つるを嵐の所為とするのだ。果して然るか。

 句碑は明和七年この地に建立された。「木寸衛盤ち可起阿らし山」の字のところどころに苔がついている。


弘源寺小倉山墓地 へ。

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