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私の旅日記
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2008年
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浄因寺
〜碑巡り〜
裾野市の若山牧水
「麦の秋」の歌碑
から沼津市街を抜け、沼津市内浦三津へ。
内浦三津に浄因寺という寺がある。
東高山浄因寺
臨済宗
円覚寺派浄因寺
俳号幻吁
(げんく)
大顛
(だいてん)
梵千禅師塔所
大顛は浄因寺七世住職。梵千は諱
(いみな)
。
延宝4年(1676年)、鎌倉円覚寺第164代住職。
鎌倉圓覺寺大巓和尚、俳名ヲ幻呼ト云、其角師トスル事新山家集に見エタリ。貞亨元年甲子正月死、翁卯月ノ頃尾張ノ國ニテ是ヲ聞テ卯の花拜ムの吟有リ。
『蕉門諸生全伝』
(遠藤曰人稿)
易に詳しかったようである。
その比円覚寺大巓和尚と申が、易にくはしくおはしけるによりて、うかゞひ侍るに、或時翁が本卦のやうみんとて、年月時日を古暦に合せて筮考せられけるに、萃といふ卦にあたる也。是は一もとの薄の風に吹れ、雨にしほれて、うき事の数々しげく成ぬれども、命つれなく、からうじて世にあるさまに譬
ヘ
たり。さればあつまるとよみて、その身は潜
カ
ならんとすれども、かなたこなたより事つどひて、心ざしをやすんずる事なしとかや。
「芭蕉翁終焉記」
大顛和尚の句碑
礼者門を敲くしだくらく花明らか也
『虚栗』
冒頭の句である。
礼者敲
レ
門
ヲ
しだくらく花明か也
『虚栗』(其角編)
貞亨2年(1685年)1月3日、57歳で遷化。
此僧予に告げていはく、圓覺寺の大顛和尚今年陸
(睦)
月の初、遷化し玉ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、先道より其角が許へ申遣しける。
梅こひて卯花拝むなみだ哉
『野ざらし紀行』
(訃報)
浄因寺に芭蕉の句碑があった。
梅こひて卯花拝むなみだ哉
昭和52年(1977年)8月、建立。
4月5日、芭蕉は熱田から
其角
に書簡を送っている。
草枕月をかさねて、露命恙もなく、今ほど帰庵に趣き、尾陽熱田に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大顛和尚、ことし睦月のはじめ、月まだほのぐらきほどに、梅のにほいに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ侍る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなくて、折節のたよりにまかせ、先一翰投
二
机右
一
而巳
梅恋て卯花拝ムなみだかな はせを
其角宛書簡(貞亨2年4月5日)
『芭蕉句選』
には「
櫻戀ひて卯の花拝むなみた哉
」とある。
「尾陽熱田に足を休る間」は3月25日から4月8日まで。
芭蕉が大顛和尚の遷化を知ったのは4月始めということになる。
大顛は其角参禅の師であった。
寄幻吁長老
老僧の笋をかむなみだかな 其角
『いつを昔』
榎本其角の句碑
幻吁長老の死を悼みて
三日月の命あやなし闇の梅
『新山家』
に収録されている。
凡河内躬恒の歌に「
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそみえね香やはかくるる
」がある。
熱海
へ。
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