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蕉 門

服部土芳

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『蕉翁句集草稿』

 服部半左衛門保英。伊賀藩藤堂家の武士。初号は蘆馬。別号は蓑虫庵・些中庵。

伊賀上野人、服部半左衛門保英、始ハ芦馬ト云、蓑虫庵ト号ス。後ニ些中庵ト改ム、享保十五年庚戌年正月十八日卒、長田庄西蓮寺ニ葬。國府來書

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 明暦3年(1657年)、服部土芳は伊賀上野に生まれる。

 貞享2年(1685年)、 『野ざらし紀行』 の旅の折に水口で芭蕉と再会を果たし、入門。

些中庵土芳其頃は蘆馬と稱す。此春播磨にありて、歸る頃、翁ははや此國に出られけれは、跡を慕ひて京に上る。水口の驛に往あひて、同し旅ねの夜すから語りあかすとて、

       命ふたつ中に活たる櫻かな

翌日朝中村柳軒といふ醫のもとに招かれ、此句にて二十年來の舊友二人におなし句を以て挨拶したりと一興。


 貞享5年(1688年)3月4日、伊賀上野に些中庵を開く。芭蕉より、「 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 」の自画賛を贈られ、 蓑虫庵 と呼ばれた。

蓑虫庵


3月11日、芭蕉は些中庵に泊まっている。

   翁を茅舎に宿して

  伊賀
おもしろう松笠もえよ薄月夜
   土芳


 元禄3年(1690年)3月2日、伊賀上野風麦亭で歌仙。

木のもとに汁も膾も桜哉
   ばせを

 明日来る人はくやしがる春
   風麦

蝶蜂を愛する程の情にて
   良品

 水のにほひをわづらひに梟
   土芳

 元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大坂 南御堂 前花屋仁右衛門宅で死去。16日、土芳は 義仲寺 に着き、18日初七日会に出る。

 十六日朝木曽塚に着先廟参す
 十七日逗留十八日初七日会に出

   追悼

耳にある声の外や夕時雨

『蓑虫庵集草稿』(土芳自筆本)

故郷塚


 芭蕉翁の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺 に葬られたが、訃報をうけて、翁の臨滅に馳せ参じた伊賀の門人貝増卓袋、服部土芳は生地に遺髪を奉じて帰り、先塋の傍に墳を築いて故郷塚ととなえた。

元禄9年(1696年)、 野坡 は土芳を訪ねる。

   伊賀土芳 亭

山越へて近付顔やはつざくら


元禄15年(1702年)、『三冊子』成立。

宝永6年(1709年)、 『蕉翁句集』

享保15年(1730年)1月18日、没。

門人に川口竹人がいる。

安永5年(1776年)、 『三冊子』 刊。 闌更 序。

 昭和4年(1929年)1月18日、土芳二百回忌で 西蓮寺 に服部土芳の墓を建立。

 昭和13年(1938年)1月19日、 「蓑虫庵」 が県史跡に指定されたのを記念して移される。

 昭和35年(1960年)4月18日、地下2メートルに埋没していた本墓が発掘された。

 昭和51年(1976年)7月11日、西蓮寺に土芳の句碑を建立。



蓑虫庵に土芳の「若菜塚」がある。


卒度往てわかな摘はや鶴の傍

土芳の句

わすれてもならぬ歎や月と梅


おくれじと木僅の花のみだれ咲


草餅にいな振舞や鯲(どぢやう)


鶯のなき集めたる胡蝶かな


雪の客おもひ出さば誰か出む


雪の客おもひ出さは誰か出ん

催の光もぬけて月夜哉


梅かゝやさくらは色てあいしらふ

鳴止みにうくひすはひる茂り哉

   哀傷述懐 亡翁三周忌

顔しらぬ世にもなかせんしくれ哉


くたけたる夢のきれかや梅の花



用の有耳は出しをく頭巾哉


水仙に来るもの一重としの明

物おめぬ遊女あはれや衣更


仰にこけてもかくや虻の足

冬椿反は殘らぬ心かな


なつかしき人やあたまに年明る


ひとりゐて人の代迄さむさ哉


みそ萩や水の重みの佛の名


朝酒のそれはことなる花こゝろ


在郷て見らるゝ花のもとりかな

鶯のひろみに啼や桐の枝


さほしかのかさなりふせる枯野かな


目さまして何にせうやら秋の宿


あかるさのあるは火燵の座敷哉


蝶々の花にはこふや化粧水


行盡す前な畠の三月菜


さほ鹿のかさなりふせる枯野哉


冬梅のひとつふたつや鳥の声


蕉 門


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