このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉像
〜採荼庵跡〜
霊巌寺
から清澄庭園に沿って清澄通りを行き、海辺橋を渡ると、採荼庵
(さいとあん)
跡がある。
採荼庵跡
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。
「杉風が別墅」が採荼庵である。
芭蕉の門人鯉屋
杉風
は今の中央区
室町1丁目
付近において代々幕府の魚御用をつとめ、
深川芭蕉庵
もその持ち家であった。
芭蕉はしばしばこの庵に遊び、「
白露もこぼさぬ萩のうねりかな
」の句を詠んだことがある。
同所平野町にあり。俳諧師杉風子の庵室なり。 杉風本国は参州にして杉山氏なり。 鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町に住んで魚售
(なや)
たり。後隠栖して一元と号す。(衰翁・衰杖等の号あり。)常に俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁を師として、この筵に遊ぶ事凡そ六十年、翁常に興ぜられて云く、
去来
は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なりと。(かばかりのこの道の達人なりしなり。杉風一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。その旧地は次の芭蕉庵の条下に詳なり。享保十七年壬子六月十三日八十六歳にして沒せり。西本願寺の中成勝寺に塔す。)
『杉風句集』
予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、
初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ
白露もこぼれぬ萩のうねりかな
はせを
このあはれにひかれて
萩うゑてひとり見ならふやま路かな
杉風
『江戸名所図会』
(採荼庵の旧跡)
元禄2年、「奥の細道」の旅はこの採荼庵から出立した。
採荼庵跡に芭蕉像がある。
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)、芭蕉は旅立った。
ところが曽良は3月20日と書いている。
巳三月廿日 日出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル。
『曽良随行日記』
成城大学の尾形仂
(つとむ)
教授は猿ヶ京温泉(群馬)に1泊して三国路紀行文学館を訪れ、3月23日付の岐阜の俳人
安川落梧
宛書簡を目にした。
三国路紀行文学館
の館長は「猿ヶ京ホテル」の女将である。
書簡には、次のように書かれていた。
野生、とし明け候へば又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上
(こうしょう)
を立ち出で候。みちのく・三越路
(みこしじ)
の風流佳人もあれかしとのみに候。
紀州藩の医師石橋生庵の日記によると、23日から25日まで雨天つづきだったそうだ。「芭蕉は天候を考慮して26日の出発予定を1日延ばして27日に出発したのだろう。」『曽良随行日記』の「巳三月廿日」は「『七』の字を書き落としたものと単純に考えていい。」と尾形仂教授は書いている。
だが、3月20日に何らかの事情で曽良が一人で深川を離れ、7日後に千住で芭蕉と落ち合ったと考えることも出来る。
また書簡は、次のように続いている。
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着
(きさらぎ)
末草庵を人にゆづる。
「住る方」すなわち芭蕉庵を人に譲ったのは2月末ということである。芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは3月27日。この間、芭蕉は何をしていたのだろう。
臨川寺
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