このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉ゆかりの地


〜臨川寺〜

採荼庵跡 から清澄庭園に沿って清澄通りを戻る。

清澄庭園にも芭蕉の句碑があるが、また 別の機会 に。

清洲橋通り沿いに臨川寺がある。


承応2年(1653年)、冷山和尚が結んだ深川大工町の臨川庵である。

延宝8年(1680年)の冬、芭蕉は江戸市中から 深川の草庵 に移る。


 そのころ 仏頂禅師 は鹿島神社との係争で江戸に出て臨川庵に仮住まいをしていた。芭蕉は臨川庵に参禅する日々を送った。

臨川寺の境内に「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」がある。

芭蕉由緒の碑


 抑(そもそも)此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。

墨直しの碑


 延享の頃(1744〜47)、江戸小石川の 神谷玄武坊 白山が洛東 雙林寺 の鑑塔を模して建立。

昭和37年(1962年)、再建。

深川海辺大工町黄檗瑞甕山臨川寺 境内

 此寺仏頂禅師の開基則故翁発心の地也

洛東双林寺 仮名の碑の写并鑑塔写

寛政 年白山下門人建之毎年三月十二日墨直しの式あり

墨直塚
東武仮名碑

我師は伊賀の国に生れて承応の頃より藤堂の家につかふ。其先は桃地の党とかや、今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたす武陵の深川に世をのかれて、世に芭蕉庵の翁とは人のもてはやしたる名なるへし。 道はつとめて今日の変化を知り、俳諧に遊ひて行脚の便を求むといふへし。 されは松島は明ほのゝ花に笑ひ、象潟は夕の雨に泣と、こそ富士吉野の名に対して、吾に一字の作なしとは古をはゝかり、今を教るの辞にて漂泊。すてに廿とせの秋のくれて、難波の浦に世を見果けむ、其頃は神無月中の二日なりけり。さるを湖水のほとりに其跡魂をとゝめて、彼 木曽寺 の苔の下に千載の名は朽さらまし。東花坊爰に此碑を作る事は、頓阿ノ西行に法縁をむすひて道に七字のこゝろを伝ふへきと也。


 正徳3年(1713年)、臨川庵は「臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺」の山号寺号が許可された。

臨川寺の本堂に芭蕉像があったが、撮影禁止。

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