このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2008年
〜
芭蕉堂
〜西行庵〜
金閣寺
から円山公園へ。
円山公園の南に芭蕉堂があった。
芭蕉堂
この堂は、江戸時代中期、俳聖松雄芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に加賀の俳人
高桑闌更
が営んだことに始まる。
鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした
西行
が、この地に阿弥陀房を訪ね、
柴の庵と聞くはくやしき名なれども よにこのもしき住居なりけり(
『山家集』
)
と詠んでいる。芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕って旅の生涯を送ったが、この地で先の西行の作歌を踏まえて、
しばの戸の月やそのままあみだ坊(
小文庫
)
の一句を詠んだ。この句を生かして闌更が営んだのが、この芭蕉堂である。
堂内には、芭蕉十哲の一人
森川許六
が刻んだ芭蕉の木像を安置する。
毎年4月12日には花供養、11月12日には芭蕉忌が行われる。
なお、東隣の西行庵庭内には
各務支考
が芭蕉十七回忌に建てた「かな書の碑」がある。
京都市
明和2年(1765年)3月12日、蓑笠庵梨一は雙林寺の墨直しに参列している。
三月十二日は東山雙林寺祖翁の石碑墨直しの会式にして、ことしは洛の蝶夢法師是をつとむ、出席の風士三十人はかり、百韻の俳諧あり、おのおの桜の発句して碑前に手向ぬ、予は其巻頭の役にさされて、
影落て朝日も白きさくらかな
『大和紀行』
天明6年(1786年)、京都東山雙林寺に芭蕉堂を創立。
寛政2年(1790年)3月10日、
朝暮園傘狂
は京都東山雙林寺で主催芭蕉百回忌取越法要を主宰。田上菊舎も参列する。
寛政7年(1795年)夏、
小林一茶
は芭蕉堂の高桑蘭更を訪問して歌仙を巻く。
芭蕉堂之会
月うつる我顔過ぬほとゝぎす
闌更
風こゝちよき入梅晴の道
亜堂
『たびしうゐ』
西行庵
昭和11年(1936年)3月19日、
種田山頭火
は芭蕉堂、西行庵へ歩いた。
三月十九日 晴。
朝は寒く昼は暖か。
どこといふあてもなく、歩きたい方へ歩きたいだけ歩いた。——
八坂の塔、芭蕉堂、西行庵、智恩院、南禅寺、
永観堂
、
銀閣寺
、本願寺、等々等。
『旅日記』
清水寺
に向かう。
二寧坂・産寧坂は人がいっぱい。清水坂は歩けないほどだった。
清水寺に行くのは止めて帰る。
私の旅日記
〜
2008年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください