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蕉 門

浜田洒堂

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俳諧深川集』  ・  『市の庵』

近江膳所の医師で、医名は道夕。別号珍碩。

 元禄2年(1689年)、芭蕉に入門。

 元禄3年(1690年)、芭蕉は浜田珍夕の草庵「洒落堂」を訪れ、草庵を讃えて「洒落堂記」を書いた。

芭蕉会館 の入口付近に「洒落堂記」の碑がある。



四方より花吹き入れて鳰の波

大津市中庄の 戒琳庵 が「洒落堂」跡という。

 元禄3年(1690年)3月中・下旬頃、芭蕉は近江の門人珎碩、 曲水 と歌仙を巻いている。

木のもとに汁も膾も桜かな
   翁

 西日のどかによき天気なり
   珎碩

旅人の虱かき行春暮て
   曲水

『ひさご』

 元禄3年(1690年)8月、 之道 は幻住庵に芭蕉を訪ねる。

   三 吟
  翁
白髭ぬく枕の下やきりぎりす

 入日をすぐに西窓の月
   之道

甘塩の鰯かぞふる秋のきて
   珍碩


 元禄3年(1690年)8月13日、『ひさご』(珍碩編)刊。

 元禄4年(1691年)、 乙州 は江戸へ赴く。芭蕉は餞別の句を贈っている。

   餞乙刕東武行

梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
   芭蕉

 かさあたらしき春の曙
   乙刕

雲雀なく小田に土持比なれや
   珍碩

 しとぎ祝ふて下されにけり
   素男


 元禄5年(1692年)夏、車庸・之道は勢多・石山の螢見に出向き、膳所の人々と歌仙。

   即 興
  珍碩
螢見や茶屋の旅籠の泊客

 湯殿の下駄に散レる卯の花
   車庸

そよそよと風にはちくの皮干て
    正秀

 笠一繩手先へゆく鑓
   昌房

百舌鳥ひくやおこしかけたる岨の月
    曲水

 露のよどみにむつはねてとぶ
   探志

椀家具も人の跡かる舶の秋
   之道


 元禄5年(1692年)9月、深川の 芭蕉庵 を訪れた。元禄6年1月まで滞在。

壬申九月に江戸へくだり、芭蕉庵に越年してことしきさらぎのはじめ、路にのぼりてふろしきをとく

   深川夜遊

青くても有るべきものを唐辛子
  芭蕉

 提げておもたき秋の新ら鍬
   洒堂


 同年9月29日、深川から川下りをして、小名木川に船を浮かべて桐奚(とうけい)宅に訪ね行く途中、船を留めて 大島稲荷神社 に立ち寄り参拝。

   九月尽の日女木三(沢)野に舟さし下して

秋にそふ(う)てゆかばや末は小松川
  ばせを

   雀の集(タカ)る岡の稲村
   桐奚

月曇る鶴の首尾に冬待て
   珎碩

女木塚句碑がある。


秋に添て行はや末ハ小松川

 同年10月3日、赤坂彦根藩邸中屋敷で五吟歌仙。

   元禄壬申冬
   十月三日許六亭興行

けふはかり人もとしよれ初時雨
   ばせを

   野は仕付たる麦のあら土
    許六

油実を売む小粒の吟味して
   洒堂

   汁の煮(にえ)たつ秋の風はな
   岱水


   芭蕉菴を出る時

故郷へ雁に壱歩が銭分ん


 元禄6年(1693年)、 俳諧深川集』 (洒堂編)。

 元禄6年(1693年)2月2日、 呂丸 京都で客死。

鶴岡市羽黒町手向の 烏崎稲荷神社 に図司呂丸追悼碑がある。



消安し都の土に春の雪

呂丸 辞世の句である。

洒堂の追悼句が刻まれている。

雁一羽いなてみや古の土の下
   酒落堂

 元禄6年(1693年)夏、難波に居を移して「市の庵」を結ぶ。

 元禄6年(1693年)秋、長崎の卯七は帰郷。

   別長崎卯七

枝々に別るゝ秋や唐辛


 元禄6年(1693年)8月、 丈草 は洛の 素牛 を伴い浪花に洒堂を訪ねる。

   夜舟より上りて洒堂 亭に眠
   る

いなづまや夜明けて後も舟心


 元禄6年(1693年)冬、芭蕉は難波に移った洒堂に句を贈った。

  贈洒堂

   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは
   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な
   かれ

難波津や田螺の蓋も冬ごもり
   芭蕉

『市の庵』(洒堂撰)

 元禄7年(1694年)閏5月22日、京都嵯峨の 落柿舎 で句会。

   閏五月二十二日
   落柿舎乳吟

柳小折片荷は涼し初真瓜
   芭蕉

 間引捨たる道中の稗
   洒堂

村雀里より岡に出ありきて
    去来

 塀かけ渡す手前石がき
    支考

月残る河水ふくむ舩の端
    丈艸

 小鰯かれて砂に照り付
    素牛

『市の庵』 (洒堂撰)

 元禄7年(1694年)夏、 『市の庵』 。洒堂自序。

 元禄7年(1694年)9月、芭蕉は洒堂宅に泊っている。

   また、酒堂が予が枕もとにていびき
   をかき候を

床に来て鼾に入るやきりぎりす

水田正秀 宛て書簡(9月25日付)

之道と軋轢を生じ膳所に帰る。

 元禄15年(1699年)、『白馬』( 正秀 ・洒堂撰)。

 宝永2年(1705年)、魯九は長崎に旅立つ。帰途、洒堂を訪ねている。

   近江 膳所

名月や粟にあきたる鶴の友
 濱田道夕
 洒堂


元文2年(1737年)9月13日、没。

洒堂の句

名月や雷のこる柿の末


七夕に出て兎も野をかけれ


咲花も乱より後の古び哉


年わすれ宿は鼠の舞臺哉

    惟然 子へ餞別

疊賣て出られよ旅へ五月雨


時鳥なくや田植のみちすさみ


年頭はかはのとちめのうつはもの


梅か香や何ても旅を仕てくれう

名月や海よりうつる藪の中


うくひすの声をそめけり藍畠


秋の実のおのが酢をしる鱠かな


えり杭に成や芦間の桃の花


庭鳥や榾焼よるの火のあかり

うくひすの聟を染けり藍畠


黍の葉にかげろふ軒や玉まつり


駒の足揃ふ濱名の夕うつら


鷄のあとに矢橋の千鳥哉


其風情すゝりに移れ朱子の菊


傘の柄もりもしらで郭公


草鹿のあつちの長や三日の月


蟷螂の小かいなとらんけふの月


神をくり荒たる宵の土大根


としわすれさかづきに桃の花書ん


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