このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
〜
江東区
〜女木塚〜
大島
(おおじま)
に芭蕉の句碑があったはずだ。
江東区
中川船番所資料館
で訪ねると、大島
(おおじま)
稲荷神社に芭蕉の句碑があると分かった。
小名木川沿いに歩いていくと、丸八橋たもとに大島稲荷神社があった。
大島稲荷神社
梅の花が咲いていた。
昭和20年3月9、10日、
大東亜戦争
にて神社、社務所一切消失
昭和40年 御神殿権現造造営
女木塚句碑がある。
秋に添て行はや末ハ小松川
江東区有形文化財に登録されている。
元禄5年(1692年)9月29日、芭蕉は深川から船で川下りをして、小名木川に船を浮かべて桐奚
(とうけい)
宅に訪ね行く途中、船を留めて大島稲荷神社に立ち寄り参拝して、境内の森の中で小名木川の流れを眺めながら詠んだ句だ、と書いてあった。
九月尽の日女木三
(沢)
野に舟さし下して
秋にそふ
(う)
てゆかばや末は小松川
ばせを
雀の集
(タカ)
る岡の稲村
桐奚
月曇る鶴の首尾に冬待て
珎碩
「九月尽の日」は、9月29日。珎碩は
浜田洒堂
の別号。
女木澤桐奚興行
秋に添て行ばや末は小枩川
天野桃隣
『陸奥鵆』
『蕉翁句集』
(土芳編)は「元禄四未ノとし」とするが、誤り。
『芭蕉翁發句集』
は「元禄六酉年」とする。
桐奚の句
霜畑やとり残されし種茄子
『韻塞』
芭蕉庵
来るも来るも豆腐好
キ
也けふの月
『陸奥鵆』
女木塚句碑の裏には「
其日菴社中造立
」と書いてある。
『諸国翁墳記』
に「
女木塚 東武葛飾郡小名木沢勝智院
ニ
建 野逸社中
」とある。
本所小葱沢勝智院 境内
ニ
在
女木塚
秋に添ふて行はや末は小松川
碑陰
其日庵野逸社中建立
『広茗荷集』
「其日
(きじつ)
庵」は、初代が
山口素堂
である。
目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂
二世其日庵は
長谷川馬光
、馬光は
関口芭蕉庵
に「さみだれ塚」を築いた。
其日庵三世は
溝口素丸
。素丸が建立した
萩寺
の芭蕉の句碑は都内の芭蕉句碑の中で最も古いものだそうだ。この素丸の時、素堂を祖とする「葛飾蕉門」なる俳系が誇示された。小林一茶は俳諧を葛飾派に学ぶ。
其日庵四世は
加藤野逸
。
名月や鰹の後の海の色 野逸
この句の碑は東京都江戸川区の
香取神社
にもある。
もう1つ芭蕉句碑がある。
五月雨をあつめて早し最上川
「
俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑
」と書いてある。
平成元年(1989年)に建てられたもの。
俳聖松尾芭蕉翁
平成12年(2000年)9月19日、大島稲荷神社御鎮座350年大祭に建立。
また、大島稲荷神社は小林一茶ゆかりの地でもある。
小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社
信州大小林講師が「水売」の句で推定。
享和3年7月7日
かぢの音は耳を離れず星今宵
七夕の相伴に出る川辺哉
享和句帖3年9月19日の条に稲荷祭とあるのは当神社の御祭礼のことである。
水売のいまきた顔や愛宕山(文政2年)
出典は『八番日記』 。
文政2年(1819年)、一茶57歳の時の句である。この年一茶は江戸にいなかったが、『おらが春』に文政2年作として「
なでしこに二文が水を浴びせけり
」の句もある。
当地大島あたり飲水が悪く小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売にきていたことが伝えられている。
『八番日記』に文政4年の句として「
水売や声ばかりでも冷つこい
」もある。この年も一茶は江戸にいない。
(懐かしき大正時代 江東大島の思い出)
誰の「思い出」なのか、よく分からない。
大島稲荷神社御由緒記に「俳人 小林一茶 句(
水売の いまきた顔や 愛宕山
)俳句碑を残してをります」と書いてあったが、句碑が見当たらない。
社務所で宮司さんに聞いてみる。第6代の宮司さんで、女性であった。
宮司さんは「息子が日光の東照宮に修行に行っているから、息子が12月に帰ってきたらよく調べて句碑を建てるつもりだ。」と言っていた。
「『愛宕山』とは何ですか?」と尋ねると、「一茶は愛宕神社に住んでいたと言われているが、その愛宕神社は大島稲荷神社の隣にあって、丸八橋が出来る時に取り壊された。愛宕神社は大島稲荷神社で一緒にお祀りしている。大島2丁目にある愛宕神社は違う。」と言う。
大島2丁目の
愛宕神社
に行く。
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