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下 町江東区


〜女木塚〜

大島(おおじま)に芭蕉の句碑があったはずだ。

  江東区中川船番所資料館 で訪ねると、大島(おおじま)稲荷神社に芭蕉の句碑があると分かった。

小名木川沿いに歩いていくと、丸八橋たもとに大島稲荷神社があった。


大島稲荷神社


梅の花が咲いていた。

昭和20年3月9、10日、 大東亜戦争 にて神社、社務所一切消失

昭和40年 御神殿権現造造営

女木塚句碑がある。


秋に添て行はや末ハ小松川

江東区有形文化財に登録されている。

 元禄5年(1692年)9月29日、芭蕉は深川から船で川下りをして、小名木川に船を浮かべて桐奚(とうけい)宅に訪ね行く途中、船を留めて大島稲荷神社に立ち寄り参拝して、境内の森の中で小名木川の流れを眺めながら詠んだ句だ、と書いてあった。

   九月尽の日女木三(沢)野に舟さし下して

秋にそふ(う)てゆかばや末は小松川
   ばせを

   雀の集(タカ)る岡の稲村
   桐奚

月曇る鶴の首尾に冬待て
   珎碩

「九月尽の日」は、9月29日。珎碩は 浜田洒堂 の別号。

   女木澤桐奚興行

秋に添て行ばや末は小枩川

天野桃隣 『陸奥鵆』

  『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄四未ノとし」とするが、誤り。 『芭蕉翁發句集』 は「元禄六酉年」とする。

桐奚の句

霜畑やとり残されし種茄子


   芭蕉庵

来るも来るも豆腐好也けふの月


女木塚句碑の裏には「其日菴社中造立」と書いてある。

  『諸国翁墳記』 に「女木塚 東武葛飾郡小名木沢勝智院建 野逸社中」とある。

本所小葱沢勝智院 境内

女木塚

秋に添ふて行はや末は小松川

碑陰

 其日庵野逸社中建立


「其日(きじつ)庵」は、初代が 山口素堂 である。

目には青葉山ほととぎす初鰹  素堂

二世其日庵は 長谷川馬光 、馬光は 関口芭蕉庵 に「さみだれ塚」を築いた。

 其日庵三世は 溝口素丸 。素丸が建立した 萩寺 の芭蕉の句碑は都内の芭蕉句碑の中で最も古いものだそうだ。この素丸の時、素堂を祖とする「葛飾蕉門」なる俳系が誇示された。小林一茶は俳諧を葛飾派に学ぶ。

其日庵四世は 加藤野逸

名月や鰹の後の海の色  野逸

この句の碑は東京都江戸川区の 香取神社 にもある。

もう1つ芭蕉句碑がある。


五月雨をあつめて早し最上川

俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑」と書いてある。

平成元年(1989年)に建てられたもの。

俳聖松尾芭蕉翁


平成12年(2000年)9月19日、大島稲荷神社御鎮座350年大祭に建立。

また、大島稲荷神社は小林一茶ゆかりの地でもある。

小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社

信州大小林講師が「水売」の句で推定。

享和3年7月7日

かぢの音は耳を離れず星今宵

七夕の相伴に出る川辺哉

享和句帖3年9月19日の条に稲荷祭とあるのは当神社の御祭礼のことである。

水売のいまきた顔や愛宕山(文政2年)

出典は『八番日記』 。

 文政2年(1819年)、一茶57歳の時の句である。この年一茶は江戸にいなかったが、『おらが春』に文政2年作として「なでしこに二文が水を浴びせけり」の句もある。

 当地大島あたり飲水が悪く小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売にきていたことが伝えられている。

 『八番日記』に文政4年の句として「水売や声ばかりでも冷つこい」もある。この年も一茶は江戸にいない。

(懐かしき大正時代 江東大島の思い出)

誰の「思い出」なのか、よく分からない。

 大島稲荷神社御由緒記に「俳人 小林一茶 句(水売の いまきた顔や 愛宕山)俳句碑を残してをります」と書いてあったが、句碑が見当たらない。

社務所で宮司さんに聞いてみる。第6代の宮司さんで、女性であった。

 宮司さんは「息子が日光の東照宮に修行に行っているから、息子が12月に帰ってきたらよく調べて句碑を建てるつもりだ。」と言っていた。

 「『愛宕山』とは何ですか?」と尋ねると、「一茶は愛宕神社に住んでいたと言われているが、その愛宕神社は大島稲荷神社の隣にあって、丸八橋が出来る時に取り壊された。愛宕神社は大島稲荷神社で一緒にお祀りしている。大島2丁目にある愛宕神社は違う。」と言う。

大島2丁目の 愛宕神社 に行く。

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