このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


濡て行人もをかしや雨の萩

天祖神社 から細い路地を行くと、横十間川沿いに龍眼寺(りゅうげんじ)がある。


龍眼寺の石塀に芭蕉の句が刻まれている。


濡て行人もをかしや雨の萩

反対側の石塀の左には榎本其角の句が彫られている。



つき見とも見えず露あり庭の萩

榎本其角 は蕉門第一の高弟。

『花摘』 に「つぼみとも見えす露あり庭の萩」とある。

右には大納言家長卿の歌。

ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は

大納言家長卿はどのような人か、よく分からない。

龍眼寺

 龍眼寺は 天台宗 で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395年)と伝えられています。

 当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。



芭蕉の句碑があった。


濡て行人もをかしや雨の萩

出典は 『泊船集』

 元禄2年(1689年)7月26日、『奥の細道』の旅の途次、石川県小松歓水亭の五十韻発句に「ぬれて行や人もお(を)かしき雨の萩」とある。

ぬれて行や人もお(を)かしき雨の萩
   芭蕉翁

 すゝき隠に薄(すすき)葺家
   亨子

 明和5年(1768年)、其日庵三世 溝口素丸 が建立したもの。都内の芭蕉句碑の中で最も古いものだそうだ。

本所上水端 慈雲山龍眼寺 庭中萩の茂の内

此寺を世俗萩寺と云

萩墳

濡て行人もをかしや雨の萩


句碑の下に水仙が咲いていた。


文政6年(1823年)9月、小林一茶は萩寺の句を詠んでいる。

萩寺 編笠の窓から見るや萩の花

『文政句帖』(文政6年9月)

 文化14年(1817年)6月18日、一茶は 焦雨 を訪れ、27日に江戸を立ち、上尾に泊まる。以後一茶が江戸に出ることはなかった。

落合直文の歌碑があった。


萩寺の萩おもしろしつゆの身のおくつきどころこことさだめむ

「つゆ」は「萩」・「おく」の縁語。

昭和38年(1963年)、復元。

落合直文 は国文学者、歌人。号は萩之家。

文久元年(1861年)、陸奥国本吉郡(宮城県気仙沼市)に生まれる。

明治26年(1893年)、 「浅香社」 を創立。門人に与謝野鉄幹 がいる。

石田波郷と石塚友二の句碑もあった。


槇の空秋押移りゐたりけり
   波郷

たかむなの疾迅わが背越す日なり
   友二

  石田波郷 の句は『風切』に収録。『波郷句自解』に「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法。」とある。

  石塚友二 は昭和10年に沙羅書店を開業。横光利一、 川端康成 らの作品や中村草田男 、石田波郷の句集を出版。昭和12年、石田波郷の俳句雑誌『鶴』創刊に加わり、波郷亡き後の昭和44年からは 『鶴』 を主宰。

庭に白梅がきれいに咲いていた。


亀戸天神社 へ。

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