このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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吉祥寺
〜あさ香社跡〜
文京区本駒込の本郷通り沿いに吉祥寺がある。
長禄2年(1458年)
太田道灌
が
江戸城
築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1594年)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657年)の大火(
明暦の大火
)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の育成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
─── 郷土愛をはぐくむ文化財 ───
文京区教育委員会
吉祥寺山門
享和2年(1802年)、再建。
吉祥寺参道
参道の左手に「お七・吉三の比翼塚」があった。
天和2年(1682年)12月、大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺である駒込の吉祥寺に避難した。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちる。
天和の大火では呉服店
「越後屋」
、
深川芭蕉庵
も焼けている。
翌天和3年(1683年)1月、もう一度火事になったら吉三郎様に逢えるとばかり、お七は新築された我が家に放火してしまう。
3月29日、お七は
鈴ヶ森刑場
で火あぶりの刑に処せられた。
昭和41年(1966年)3月29日、お七生誕300年記念に日本紀行文学界建立。
平成19年(2007年)11月、再建。
参道の右手に「川上眉山の墓」があった。
明治2年──明治41年(1869──1908)。大阪生まれ。名は亮
(あきら)
。小説家。東大を中退して
尾崎紅葉
や山田美妙と交わり硯友社に参加。また『文学界』同人とも交わる。明治28年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。
東京都文京区教育委員会
諏訪山吉祥寺
曹洞宗
の寺である。
吉祥寺経堂
栴檀林の図書収蔵庫であった。
貞享3年(1686年)、旧経蔵建造。
安永7年(1778年)、焼失。
文化元年(1804年)、再建。
昭和8年(1933年)、修復。
文京区指定文化財である。
「小出浩平先生顕彰歌碑」があった。
「こいのぼり」の楽譜が刻まれ、「作詞・作曲 小出浩平」と記されている。
昭和54年(1979年)11月18日、建立。
当時、「こいのぼり」の作詞・作曲は小出浩平とされていたようだが、近藤宮子の歌詞、作曲者は不明というのが一般的だそうだ。
吉祥寺の南側に「あさ香社跡」があった。
あさ香社跡(落合直文終焉の地)
文京区本駒込3−6−9
落合直文
(歌人・国学者 1861〜1903)は仙台藩主鮎貝盛房の次男として生まれ、国学者落合直亮
(なおあき)
の養子となった。
東京大学を卒業し、第一高等中学校や東京専門学校で教鞭をとりながら、国学の研究に従事した。 この間、居を転々としたが、明治26年(1893年)に、旧小石川掃除町から旧浅嘉町78番地(当地)に移り住んだ。翌年2月町名にちなんで「あさ香社(浅香社)」という歌塾を創設し、新しい短歌運動を起こした。社友には、鮎貝塊園(実弟)、与謝野鉄幹 、尾上柴舟ら30人ほどが集まった。ここから「新詩社」(鉄幹)、「いかづち会」(柴舟)など、和歌革新運動が起こり、発展していった。直文は和歌のみでなく、「大楠公」、「孝女白菊」などの名作も残している。明治36年(1903年)この地で没した。
木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげ夢見いざこのよねむ(直文の辞世)
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