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蕉 門

川井乙州

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大津の生まれ。智月の弟。後、川井家の養嗣子となる。生没年不詳。

江州大津の人、智月尼ノ子。弟後子トナル。父佐右衛門病死ノ後問屋役ヲうけつぐ也。孤峯來書。

『蕉門諸生全伝』 (遠藤曰人稿)

 元禄3年(1690年)12月、芭蕉は 凡兆去来 ・乙州・ 史邦 ら門人を伴ない 上御霊神社 に参詣して「年忘歌仙」を奉納した。

上御霊神社


   年忘 歌仙

半日ハ神を友にや年忘
 芭蕉

 雪に土民の供物納る
 示右

水光る芦のふけ原鶴啼て
 凡兆

 闇の夜渡るおも楫の聲
 去来

なまらすに物いふ月の都人
 景桃丸

 秋に突折虫喰の杖
 乙劦

俳諧八重桜集』

 元禄3年(1690年)、芭蕉は乙州の新宅で年の暮れを迎える。

   乙刕が新宅にて

人に家を買せて我は年わすれ
   芭蕉


 元禄4年(1691年)、乙州は江戸へ赴く。芭蕉は餞別の句を贈っている。

   東武におもひ立けるころおのおの
   木曾塚 に會して

鈴掛をかけぬはかりのあつさ哉
   史邦


   武江におもむく旅亭の残夢

寝ぐるしき窓の細目や闇の梅


   餞乙刕東武行

梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
   芭蕉

 かさあたらしき春の曙
   乙刕


   筥根山を越る比 頓而死ぬ気色ハ
   見えす と無常迅速をのへ給ひし
   を思ひ合て

動き出る日もゆるさしや蝉の声
   乙州


   江府よりの登にいせへ登りて

あひの山誰追かけてほとゝぎす


 元禄4年(1690年)9月3日、 路通 の発句で歌仙を巻く。

   元録四年九月三日

      歌仙

うるハしき稲の穂並の朝日哉
 路通

 雁もはなれす溜池の水
   昌戻

白壁のうちより碪打そめて
   翁

 蝋燭の火をもらふ夕月
    正秀

頼れて銀杏の廣葉かち落す
   野徑

 すかりて乳をしほるゑのころ
   乙州


 元禄4年(1691年)9月9日、重陽の節句に乙州は酒一樽を持って義仲寺無名庵にいた芭蕉を訪ねた。

おなじ年九月九日、乙州が
 一樽をたづさへ来りけるに

草の戸や日暮れてくれし菊の酒
   翁

 蜘手にのする水桶の月
   乙州

『笈日記』 (湖南部)

大津市 馬場児童公園 の句碑


草の戸や日暮れてくれし菊の酒

 元禄4年(1691年)秋、芭蕉は乙州、 丈草 らと竜が丘にあった丈草の知人荘右衛門の山姿亭を訪れているという。

蕎麦も見てけなりがらせよ野良の萩

 元禄8年(1695年)1月23日、芭蕉の百か日。

春風も西へ西へと百ヶ日


 元禄8年(1695年)3月18日、 各務支考 は江戸を発つ。乙州は餞別の句を贈っている。

咲花の中をぬけ出て尻つまげ

『笈日記』 (支考編)

 元禄8年(1695年)、乙州は北陸行脚。加州で翁の一周忌を迎える。

   増穂の小貝ハ西上人のひらひ
   初られて散萩や風羅坊の
   見残されし跡をしたひ彼浜に
   いたりて

穐もはら砂吹よせて増穂貝
   乙州


   翁一周忌は加州にありて心のまゝ
   ならす、かすかすの恩を思ひて
大津
ひとつひとつかそへもならす玉あられ
 乙州


 宝永6年(1709年)、 『笈の小文』 刊。

享保5年(1720年)1月3日、64歳で没。

乙州の句

宵々の水増水や秋の風


此儘に罪つくる身の日は永し


降だしてはらはら雨や螢谷


うくひすや背戸かど知らぬ鳥羽繩手


三浦には九十三騎やはかまゐ(い)


物売の急になりたる寒さ哉


親仁さへ起さる先にみそさゝゐ


谷こしや空吹風のかんこ鳥


鶯やそはに目白も啼たかほ


かはづ啼此聞やうは有ふ物


摺鉢の音も師走の雪氣かな


芭蕉葉やうちからし行月のかけ


置く霜の敵を味方に水仙花


   無常迅速

咲花も老行間日はなかりけり


   亡師の廟前にて

もろともにむせぶか我は蟇の声


海山の鳥啼たつて雪吹かな


馬かりてたけ田の里やゆく時雨


ゆく秋を鼓弓の糸のうらみかな


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