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私の旅日記
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2013年
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湊川神社
〜楠木正成公墓碑〜
神戸市中央区多聞通に
湊川神社
(HP)がある。
史跡
楠木正成公墓碑
この墓碑は延元元年(1336年)5月25日御殉節せられて後、350年余を経た元禄5年(1692年)12月21日に
水戸光圀
公によって建立せられたものである。碑面8文字「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆にして碑陰に明の遺臣朱舜水の撰文を彫す。
徳川光圀公の銅像
徳川光圀公は家臣佐々介三郎宗淳
(むねきよ)
を遣わした。佐々木助三郎のモデルである。
昭和30年(1955年)7月、建立。
湊川神社本殿
明治5年(1872年)、創建。
楠木正成公墓碑は
廣嚴寺
から移された。
元禄11年(1698年)4月21日、
各務支考
は楠木正成の墓を見ている。
兵庫の湊川を過て楠か古墳 を見る。されは此士は文にあはれに武にたけかりしか。一子正行か櫻井の宿のわかれまておもひ出られて
鎧にも泣たもとあり百合の露
『梟日記』
享保6年(1721年)、田中千梅は楠木正成公の墓碑を訪ねている。
湊川に楠か墓 を尋ぬ碑の銘に嗚呼忠臣楠子亡墓と記
ス
水戸黄門再
ヒ
立
タマフ
之
ヲ
鉄肝石心此人の情と翁も一句のしはふきをのこされけり金セツ
(※「金」+「截」)
の勇気今も験のうへにあらはる
『鎌倉海道』
文化元年(1804年)、鶴田卓池は湊川で句を詠んでいる。
湊川
嗚呼と鳴鳥は烏よ湊川
「吉野紀行」
文化元年(1804年)8月18日、
太田南畝
は小倉に赴く途中で楠木正成公の墓碑を見ている。
くらうして見えわかねば、灯高くかゝげさせて格子のうちをうかがひみるに、花かめに松二もとたてゝ、碑の趺の龜のあたりをおほへり。やうやく人見を凝らしてみれば、嗚呼忠臣楠子之墓といへる文字かすかにわかちぬべし。背面の文みてもよみわかつべくも覺えねば力なし。
『革令紀行』
嘉永4年(1851年)3月18日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、楠木正成の墓を参拝している。
湊川に至り楠公の墓を拜す。遙かに摩耶山を視、阿保親王の廟前を過りて、西宮驛に宿す。
『東遊日記』
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