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私の旅日記2013年

防府天満宮〜芭蕉の句碑〜
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防府市松崎町に 防府天満宮 (HP)がある。


防府天満宮の石段


大専坊

 防府天満宮の表参道に面した両側には明治維新まで9つの社坊(西側に大専坊・西林坊・東林坊・密蔵坊・会所坊、東側に円楽坊・等覚坊・乗林坊・千蔵坊)が立ち並んでいて、一山の総号を酒垂山萬福寺と称した。大専坊はその一山の別当坊で天満宮創建当時の草創という。

 この坊は弘治3年(1557年)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで、元就の参謀本部となった。

 また尊皇攘夷で激動した幕末には、この地方を警固する諸隊の屯所となった。

山口県指定史跡

 慶長3年(1598年)6月12日、石田三成は九州下向の際円楽坊に宿泊している。

 十日にくばといふ所へ船渡りし給ひて、馬をすすめ給ふままに、高森といふ所、富田と云ふ所、各一夜づづにて、十二日に天神の府まで也。これ則ち周防の府中也。菅丞相左遷のいにしへ、舟よせ給ひし所とて大社あり。前なる海こそまりふの浦と云ふ名所なりけれ。御宿の円楽坊重恵所望に、

   秋の色は茂る木のまのいがき哉

『九州下向記』

放生池に芭蕉の句碑があった。


古池や蛙飛込む水の音

出典は『蛙合』(仙化編)。

貞亨3年(1686年)春、 深川芭蕉庵 で詠まれた句。

文化3年(1806年)4月12日、有時庵此由建立。 白寿坊 書。

此由は周防三田尻中濱の塩田主田中彦七。

  『諸国翁墳記』 に「古池塚 防府宮市驛天満宮境内在 三田尻有時庵此由」とある。

防府天満宮の楼門


 学問の神様として受験生を始め多くの多くの参拝客で賑わう天神様。ご祭神は、平安時代に高い学識をもって右大臣にありながら、延喜元年(901年)藤原氏によって太宰権帥に左遷された菅原道真公。太宰府へ下る途中に滞在した防府を愛でられた菅公をしのんで、死後の翌年延喜4年(904年)に建立。

 菅公をおまつりしたお社は日本全国約12,000社あるが、当社の創建を日本最初とし、北野(京都)、 大宰府 (福岡)とともに日本三大天神と称されている。

防府天満宮の拝殿


元禄11年(1698年)5月27日、 各務支考 は防府天満宮を訪れている。

此地に天滿宮おはし、鏡の御影ときこへさせ給ふは、さすらひのむかし、旅姿を水かゞみ給ひしよりかく申傳へしと、宿のあるじのかたり申されしに、

   五月雨ににごらぬ梅の疎影哉


春風楼


 春風楼は十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち、文政5年(1822年)6月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始めの儀を行ったが、資金調達中天保2年(1831年)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。

 その後塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治6年(1873年)に完工した。

 この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。

 この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で、春風楼の名にふさわしい。

床下の木組


 文化2年(1805年)10月20日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で防府天満宮を訪れた。

道の左二町ばかりに防府天滿宮あり。石の鳥居高さ二丈。額は五條爲範卿の筆なりと云。延喜年中菅神西海におもむき給ふ時、御船を當國勝間の浦に寄せ給ふによりて、建る所の宮居にして、諸國に菅廟を建る始なりと縁起にはいへり。社の東五町ばかりに、山の上の巖より水したれゝるを酒谷といひ、山を酒垂山と名づく。當社を建し時醴泉わき出し事によれり。


毛利重就(しげたか)公(英霊公)


 長州藩七代の藩主で財政の確立に努め、産業の開発、教育の振興を計り、藩中興の英主と仰がれる。特に宝暦13年(1763年)、撫育局を創設し検地によって得た余裕を別途に貯蓄せしめ、他への流用を禁じた。年を経て、その米銀は巨額に達し、後年、長州藩の幕末維新期に於ける活動の財源となった。さらに公は、防府に愛着し、この地こそ防長の殖産興業の中心となるべき処と着目、勝間開作、鶴浜、西浦浜などの良田、塩田を相次いで干拓し、天明2年(1782年)隠居後は三田尻御茶屋に住み、一層積極的に防府の発展に尽くした。居ること8年、寛政元年(1789年)同所に薨じた。

 産業都市としての防府の基礎は、重就公によって確立されたのである。

(臼杵華臣撰)

 安政6年(1859年)5月26日、 吉田松陰 は幕府の命により萩から江戸に護送される途中で防府天満宮の前を通り、太宰府(つくし)に流された菅原道真と江戸(あずま)に送られる自分の心境を重ね合わせて歌を詠んでいる。

   菅公廟

思ふかな君がつくしのこころしは賤(しず)があずまの旅につけても


天神山公園に 山頭火の句碑 がある。

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