このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

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野村白寿坊

 幕府の御家人。江戸下谷徒士町に住む。野村信我。美濃派(以哉派)七世道統。道元居。敲月。

 天明2年(1782年)年末に 田上菊舎 は白寿坊道元宅に着き、年を越す。

 寛政2年(1790年)3月10日、 朝暮園 傘狂は京都東山 雙林寺 で主催芭蕉百回忌取越法要を主宰。田上菊舎も参列する。11日、大坂へ下り、12日、大坂在勤の野村信我 と会う。

 寛政6年(1796年)、『追善弔古々路』(菊舎編)刊。白寿坊序。

山岳も低く滄海も浅き雅恩を忘れず、此たび帰郷の通りがけ、朝暮先師の墳墓へ詣拝せんとある菊舎風尼のさゝやきを、尤とうなづきやるにぞ
  東武
行て経よめうぐひすの笠つゐて
   白寿坊

台東区上野の 不忍池弁天堂 に「芭蕉翁」の碑がある。



寛政年間、白寿坊信我建立という。

 寛政10年(1793年)、喫茶仙白兎は 芭蕉の句碑 を建立。白寿坊書。



此あたり目に見ゆるものハ皆涼し

 寛政11年(1799年)8月21日、菊亮没。

   佐嘉城に此叟ありと風雅の名を鳴ら
   せし菊壱僧、多年のやまひ治しかた
   く終に安養界へ遷化とのしらせに驚
   き、悼み侍りて
  東武
薫るほとかほりて菊の凋みしか
   白寿坊


 享和元年(1801年)、十方庵画山『残夢塚供養』(菊亮編)刊。朝暮園傘狂序。白寿坊跋。

 享和3年(1803年)3月9日、美濃へ旅立つ。『春の首途』

 文化3年(1806年)3月、白寿坊は 「永観堂連塔」 を建立。田上菊舎は建碑式に参列。『道の花』。

 文化3年(1806年)4月12日、有時庵此由は 芭蕉の句碑 を建立。白寿坊書。



古池や蛙飛込む水の音

 文化6年(1809年)、垂井町の 本龍寺 に「作り木塚」を建立。白寿坊書。



   美濃垂井規外かもとに冬籠して

作り木の庭をいさめるしくれ哉

文化14年(1817年)6月16日、79歳で没。

関ヶ原町の 「美濃不破関跡」 に芭蕉の句碑がある。



秋風や薮も畠も不破の關

白寿坊書。

大分市の 春日神社 に芭蕉の句碑がある。



物言へば唇寒し秋の風

白寿坊書。

 福岡県吉富町の 天仲寺公園 にある美濃派の句碑に「ほろほろと雨の降り出す枯野哉」の句が刻まれている。

天保6年(1835年)、山本友左坊は 永観堂 に白寿坊の句碑を建立。



ほろほろと雨のふり出す枯野哉

白寿坊の句

忌日忌日忘れずや花は忘れても

『霜の朝』

浪音も冴へん供養の塚清め


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