このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
大野是什坊
岩手竹中家の家臣。本名は親芳、通称瀬兵衛、号を傘狂・朝暮園・老森庵・風論子・花中人といった。
宝暦2年(1752年)、公用側用人を申し付けられ江戸詰となる。
安永9年(1780年)、
安田以哉坊
より道統を受け、美濃派六世を継承。
天明2年(1782年)2月末、
田上菊舎
は美濃国不破郡岩手に朝暮園傘狂を訪ね、数日滞在。
天明3年(1783年)5月、田上菊舎は江戸出府の朝暮園を訪ねる。
天明4年(1784年)6月、田上菊舎は岩手に朝暮園の帰りを待つ。
水無月の比、朝暮園師、吾妻より帰り玉ふ
を待うけ侍りて
これからぞ汲ん岩出の山清水
『手折菊』
天明8年(1788年)、致仕。
寛政2年(1790年)3月10日、朝暮園傘狂は京都東山
雙林寺
で主催芭蕉百回忌取越法要を主宰。田上菊舎も参列する。
寛政3年(1791年)3月、寒河江の虚空蔵堂に俳額を奉納。朝暮園傘狂選。
寛政3年(1791年)、不二庵風五百カ日の追善句集『霜の朝』(雪柳庵文和編)朝暮老人傘狂跋。
寛政5年(1793年)、
田上菊舎
は不破の関を越え、再び美濃の大野傘狂 邸を訪れた。
長府一字庵の主尼、三とせぶりならん朝暮の柴扉を尋ねらるゝにぞ、山海辺にその信を捨られざる事は今さら感じながら、互ひのなつかしさは逢ふての上の言の葉もなく、馴染の山辺に伴ひありきて、そこの木陰、爰の流れに安らひ安らひて
泉ほど咄
(はな)
しも涌ぬ夕涼
宗師
わすれぬ山に夏は忘るゝ
菊舎
『美濃・信濃行』
寛政5年(1793年)、是什坊は風廬坊と共に
伊良湖
に遊ぶ。
寛政5年(1793年)、是什坊と号す。
寛政5年(1793年)12月17日、67歳で没。
寛政6年(1796年)、『追善弔古々路』(菊舎編)刊。
白寿坊
序。
享和元年(1801年)、十方庵画山
『残夢塚供養』
(菊亮編)刊。朝暮園傘狂序。
文化3年(1806年)3月、
野村白寿坊
は「永観堂連塔」を建立。
第六世 大野是什坊
くもるほどによい空奪ふ桜かな
垂井町の
本龍寺
に傘狂の句碑がある。
蜂の巣や知らぬきのふをあふながる
垂井町の
菁莪記念館
に大野是什坊の句碑がある。
初雪やそれさへたらぬ貯ひ酒
福岡県吉富町の
天仲寺公園
にある美濃派の句碑に「
くもる程よい空奪ふ桜かな
」の句が刻まれている。
傘狂の句
その魂の草麦に今もかけろハん
『十かへりの花』
このページのトップ
に戻る
俳 人
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください