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田上菊舎


『手折菊』(菊舎編)

文化9年(1812年)、『手折菊』(菊舎編)刊。自序。

田上菊舎六十賀の記念集。

手折菊 一(花)

余若ふして夫にはなれ、家に緒つぐ子
なければ、ゆかり有人の子を養子して家計
の事共まかせ譲りし今は、浮世に暇あく身と
成ぬれば、天が下の名にあふくまぐま、
神社仏閣を拝詣せばやと思ひ立日を其
儘に、ひとり旅路におもむきぬ。

月を笠に着て遊ばゞや旅の空



爰には竹奥舎其音といへるわが通家の
人有。素より俳諧を好まれ、予が其道に志
有を感じ、 朝暮園傘狂 といへる美濃の
宗匠の許へ添書を認め玉はりぬ。



    本願寺 に詣て、七昼夜の御読経に逢時

報恩をおもへばかろし雪の笠

今はたゞ参るばかりが報恩講

   二月の末つかた、美濃国に至り、朝暮園宗
   匠を初て訪し時

咲花に今届く手のたゞ嬉し

    したひ来たとの誠うらゝか
傘狂

   美江寺・正田・岐阜・長良・洞の里・大垣辺
   経歴して、雅友の贈答付合数巻有。

   ○菊舎風尼に信の一字を与へ、言行不
   両失信の意をとりて、一字庵と号け
   侍り。且つ越行の首途を送り別をおしみて

一声も耳に残らばほとゝぎす
朝暮園

美濃のお山も立はなれ、心細さのたゞ獨、寂寞無聊の限なし。

   かんこさへ聞ぬ日もありひとり旅

   卯花の雪や伊吹の山おろし

越前 吉崎の御寺 に詣、此山に筆草宥。蓮如上人の古蹟と聞侍れば、

   穴賢ふみの筆くさ生茂り

福井城下祐阿老賀のもとに滯杖して雅會有。それより金津の庄山氏二逐亭にも宿りを重ね、贈答の句付合有。

細呂木の關にて、月を笠に着て遊ばゞや旅の空の句を携へ、雲水の旅に思ひ立し身を、そこは通さぬ爰はゆるさじと、關守人にせき留られて、

   關の戸を叩ては鳴水鶏も我も

荒地山を越る時、高祖聖人御詠有し事どもおもひ出して、

   涙そゝぐ御足の跡や荒地山

賀州山中温泉にて、蕉翁の、 菊は手折し湯のにほひ なる高吟おもひ出しまゝ

   茸添る軒のあやめや温泉の匂ひ

松任なる 千代尼 の跡を訪ふに、白烏といへるぬし出逢て、千代尼在世の事抔物語一夜舎りぬ。

   花見せる心にそよげ夏木立

      破れし蚊帳に移る月影   白烏

金澤にも十日餘り滯杖し、手鳴雅衲の寺に宿りぬ。能登の國津幡といふ所に舎りせし折節、京のひもと云名産有ば、

、    短夜の夢やむすばん京のひも

越中相もとの橋にて、

   すゞしさやもつと此橋長からで

しるしらぬ人皆恋し親しらず

   これより先は、所謂こたの浜なり。爰を
   過て 国分寺 有。境内に鏡池有。是即、他力
   念仏一行と勧め玉ふ聖人の御面影を
   自木像に刻ませ給ふ池なりと聞侍りて

着飾らぬ影こそすゞし鏡池

   高田の城下に遊吟し、それより 信濃の国
   に移りぬ。

まづ名乗れ越の関山時鳥

    善光寺 に詣。「松のみ残る」の御詠歌を思ひ
   出せしまゝ

松のみか幾世にかゝる雲の峯

    姨捨山 にて、花には花笠の面影を尽し、
   月には竹笠の侘姿も亦おかし。善光寺
   を拝せしより、此更科の月にひかれてわけ
   登るも唯ひとり。比は水無月中のひと日、
   入相聞る時なれば、いでそや月を眺めんと、
   其まゝ山に仮寝して

姨石をちからに更て月すゞし

   山に登りて小夜更るまで月をながめしが、
   十分の詠めもたらぬに、俄に空はためき、
   いたく大雨降り、神鳴いなびかり甚しく、
   高深陵谷の大変事にて、あたりの山さへ
   崩れ出、己が命も寸前に失はんとおもふ
   程からければ、とある岩のはざまに這寄
   て身をちゞめ、一心即滅と念じ居るうち、
   漸々夜明になりぬ。爰に伝五郎といへる人
   有。夫婦の心ばへいとやさしく、情しるもの
   なり。前言、我ひとり山に登りしを麓に
   田業せし折から見かけ置しが、いかなる
   よるべの夙縁にや、終夜烈しき風雨ゆへ、
   案ずるばかりいも寝ざりしとて尋ね
   来り、且悦びかついたはり、連ておのれが
   家に帰り介抱す。此時の命のゝばゝり
   しは全く彼夫婦の情深きゆへなり。

姨捨た里にやさしやほとゝぎす



   爰に白雪廬風五とて、俳諧にひたぶる好者
   有。夫婦ともに此道に耽りしまゝ、其家にも
   四五日滞杖、贈答付合句数有。

   其より 立石寺 といへる山刹を尋ぬ。此
   寺は蕉翁の、「岩にしみ入蝉の声」の高吟
   世に聞えし所也。甚清閑寂寞の地にて、巌かさ
   なり、苔ふり、所謂、空翠庭陰に落る情有。

踏しめて登るも清し霜の花

   其後、二口にかゝり、行暮て道を失ひ、終
   夜山をさまよひ歩きぬ。

山中や笠に落葉の音ばかり



   千賀の浦より舟に遊びて

松嶌 や小春ひと日の漕たらず

   金華山を詠るとて

指出る朝日目ばゆし金華山

    塩竈明神 へ奉納し、次に 壺の石ぶみ
    沖の石末の松山 ・宮城野に至るまで、其
   名高く聞へ侍りしところ、何れも発句有。
   ふりはへて再び仙台の城下に帰り、白石の
   かたへ立出る。「陸奥のあぶくま川のあ
   なたにぞ人わすれずの山は有ける」古歌
   抔くり言して、 達出(伊達)の大木戸 ・あね葉の松・
   埋木・ 忍摺 ・葛の松原、あるは 白河の関路 には
   通はぬ人だに、「秋風の吹」名高し。みづから
   其地をふみわけて、処々に発句せしも、
   おふかたはわすれぬ。いかに雲水の行衛定
   めぬ身とはしりながら、かく空蝉のもぬけ
   なるこゝろぞかなしけれ。
   下野奈須野原 にて

迷ふたは怪し奈須野の枯尾花

    日光山 にて

雪に今朝まじる塵なし日の光

   爰に朝暮園の同志数輩有て、日
   久しく杖をとゞめ雅情に預りぬ。
   或夜、日光山の鐘を聞て、古郷の事し
   きりに思ひしまゝ

鐘氷る夜や父母のおもはるゝ

   はるばる陸奥の方よりめぐり来て、
   墨田川をわたれば、何となく郷に帰りし
   心地こそすれ。

そふかそれよ何とはひでも都鳥

   漸々と江戸に出、 道元居 宗匠の家を
   尋ね落つきぬ。此主人老夫婦初ての相見
   ながら、親子の中に相逢ごとく、その慈愛
   深かりしまゝ、旅のものうさ打わすれ、
   あなたこなたの雅筵に会し、道の
   修行の励みを得しも、道元居師の誘掖
   をもて、三とせ経るまで杖を留めし
   因縁とはなれり。
   爰に初古郷を出し時、朝暮園師に
   添文玉はりし萩城竹奥舎ぬしにめぐり
   逢ひしまゝ

長き旅も爰にこふした力草

   此後、さしてもなきわが俳癖の名さへ聞へて、雅
   会茶席はいふもさらに、諸侯貴権の御燕
   享にも召れ、あふ(おほ)けなき事共多し。
   殊更花実庵風尼は、慈愛の御志他に
   増りて有難き事いふばかりなし。
   又麻布六本木に、木工屋作左衛門といへる
   人有。寛仁温雅の志深く、われを愛する
   事親子のごとし。己が家に別室を分ち、
   長々の宿りをゆるし、人を恤(うれう)る情こそ
   有難けれ。後の東遊に再び此室
   にやどりし時、七絃琴を自製して
   予に其道を学ばしむ。今に身をはな
   さず携へたのしむ流水琴是也。
   予が麻布に仮居せし翌年夏の
   頃、 朝暮園 師来り玉ふを悦びて

頭陀の限り見せむ涼しい師の前に

 吹入る風もかほりそふ時
朝暮園



   庚申の年、端午前より江戸を立て、
   古郷の方へとおもむきぬ。

五十三次見て登る幟かな

   吉原駅にて

涼しさのくらべ物なし富士おろし

    大井川 にて

さればこそ浮草もなし大井川



   それより処々遊吟し関ヶ原なる
   古戦場にて

聞ことのおくれはとらじ郭公

    長良川の鵜飼 を見て

闇は照す物のあはれや鵜のかゞり

   水無月の比、 朝暮園 師、吾妻より帰り玉ふ
   を待うけ侍りて

これからぞ汲ん岩出の山清水



   或日、細竹主人と朝暮師と共に、 養老
   瀧見に到りて

山つゝむ霧打切て瀧白し
百茶坊

   朝暮師及予句並遺却。
   中秋、不破の月見を餞別会とて連衆
   数多に付合巻有。
   ○長き前文
   有。略ス。

進み帰れ二千里の月も見せたれば
朝暮園

   雅友各餞別の句有。
   さればこそ、更級・武蔵野・不破の月まで、
   師の余光を笠に着て名所くまなく
   見巡りしが、今日帰郷の時に至り、平生
   教示の一言もわが行過をのみつゝしめ
   よと、老の心切に諭し玉ふ師の心をも休め
   ばやと、この一句を留侍る。

帰る晴も月に教への薦一枚



   同短歌行
   藤下・山中・柏原・醒井 ・樋口・ 高宮 等を歴遊し、
   川並村へも杖を寄、程なく東海道に出、草
   津駅では養専寺にやどり、初泊りし
   ところどころ、今帰るさの道すがら数々問訊
   して、謝情言葉に尽し難し。



美濃宗匠の添文を携て、初て洛の書林
橘屋治兵衛を訪ね宿りぬ。それより秋
冬京摂の間に風遊せし事、夢幻
ともおぼゝへず、実に繋ざる舟のごとし。
漸々古郷に帰りし比は、其年の暮にこそ
あれ。爰に亡弟が発句を記す。
〇けふや明日やとまちわびおもひし、はらからなる
一字庵主人帰宅有しをよろこび興じて
一陽居
待得たり其香習はむ年の梅
   今始

   歳 祝
   年久しく諸国へ回歴せしかども、つゝがなく
   今年豊浦の古郷に帰り、父母の傍に
   春をむかへて寿きて

生れかへた心に明つ花の春

   人 日
   両の手に桃と桜や 」となん、蕉翁の高吟を
   思ひ、予はたらちねのにつかえむ事を

両の手に乗せて給仕や薺粥



手折菊 二(鳥)

寛政6年(1794年)、江戸を立ち東海道五十三次を絵にして句を付けた。

月に花にわたる世広し日本橋

品川や袖に打越す花のなみ

陽炎や大師の不思義川崎に

夕霞引くや戸塚の高どまり



小田原やうゐらう匂ふ宵朧



玉ふくや由井の蚫(あわび)の春日影

沖つなみおさまる春や清見潟



青海苔やまりこの汁の名に薫り



花に渡る嶋田は安し大井川

菊川や金谷に匂ふ根分時



懸川や長閑に葛の秋葉道

袋井や春日に光る鶴の札

白雲や富士を見付のさくら時

浜松や和らぐ波も遠江



あらためて新居に花の波清し



二川や花に契りの玉かしは

世の味やよし田の花に一夜客

振袖の御油に引かれつ藤の暮

赤坂に灯しそへたり桃の花



浮魚のちりふに躍る温みかな

貝寄の風や桑名に舟上り

手折菊 三

又或年、宇治の里なる黄檗山に詣て

山門を出れば日本ぞ茶摘うた

    不破の関 にて

今は誰もる人もなき板びさし月のみ関の名にかよひ来て

手折菊 四

同五日朝、花の浦より舩出し侍りぬ。安芸の国 厳島 にて

霞酌ん七浦々のわらひつれ

明石の沖より遙に 人丸明神 を拝し奉りて

一きはの雲は人丸桜かな

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