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芭蕉の句碑


馬方はしらし時雨の大井川

島田市博物館 の裏手に川会所がある。


 寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の「任果てて」上京。大井川を渡る。

大井河といふわたりあり。水の世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。


 弘安2年(1279年)10月25日、阿仏尼は大井川を渡る。

 廿五日、菊川を出でゝ、今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて、聞きしには違ひてわづらひなし。河原幾里とかや、いと遙か也。水の出でたらん面影、推し量らる。

   思ひ出る都のことは大井川幾瀬の石の数も及ばじ


川会所


島田宿の俳人 塚本如舟 は川庄屋を勤めていた。

川奉行役之ものに而候へば、いかやう共川をこさせ可申候間先とまり候へと申内に、大雨風一夜あれ候而当年之大水、三日渡り留り候。

曽良宛書簡(元禄7年閏5月21日)

川会所に芭蕉の句碑があった。


輦臺越遺跡

馬方はしらし時雨の大井川

出典は 『泊船集』 (風国編)。

島田塚本氏に詠草有」と注記。

昭和3年(1928年)1月、建立。

 元禄4年(1691年)9月28日、芭蕉は膳所 義仲寺 を後にして東下の旅に出、10月下旬に島田の 塚本如舟 を訪れた。

   馬かたはしらじ時雨の大井川

かかる風景のたぐひなさも心なき身の大河の落来る水にかなしみ雨を叱るもおかし其情表に述るばかり也。


 元禄5年(1692年)5月19日、貝原益軒は大井川を渡り、江尻に泊まる。

 十九日。朝、大井川をわたる。此比、日なみよければ、水あさくて心のどけし。安部川いとあさまし。此河原より北に遠く、甲斐の白峯見ゆ。常に雪あり。安部川の上に木枯の森有。けふは江尻にとまる。


 元禄5年(1692年)7月14日、 森川許六 は大井川を越え江戸に向かう。

   七月十四夜、嶋田・金やの送り
   火を見て感をます。

聖霊とならで越えけり大井川

『俳諧問答』

   嶋田金やの送り火を見て

聖霊にならで越けり大井川


 元禄7年(1694年)9月6日、其角は上方へ旅立ち、9月の末に大井川を渡る。

   なが月の末、大井川をわたりて

いつしかに稲を干瀬や大井川


 元禄11年(1698年)、 広瀬惟然 は奥羽行脚の帰途大井川を渡る。

かろがろと荷も撫子の大井川


 元禄11年(1698年)6月7日、 岩田涼莵 は大井川を越え江戸に向かう。

   大井川を見渡したるに、思ひしにかはり水
   あせて、わたりやすげなり。

水無月やちんばも見得て大井川


 元禄13年(1700年)、 服部嵐雪 は大井川を渡り、京へ上る。

大井川船有ごとし花の旅


 宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、大井川のことを書いている。

大井川はおそろしき渡りにて、いくばくの人や取けむ。玉祭る比は島田金谷の尼小法師あまたの火ともして、をくりむかへするよし、旅のあはれもうちそひ侍る。


 元文5年(1740年)、榎本馬州は『奥の細道』の跡を辿る旅の途上、大井川を越えた。

獺も雪解祭れ大井川


 延享3年(1746年)5月、佐久間柳居は大井川を越え伊勢に向かう。

こゝは東海道第一の難所にしてこと更此ほとの霖雨にみかさ増れはほそ首中に大井川といへるむかしの狂句もおもひ出ておそろし

早乙女は繋てわたせ笠の橋


 宝暦6年(1756年)4月、白井鳥酔は烏明と星飯を伴い東海道を大坂に向かい、大井川を輦台で渡る。

琴堂幸にましまして大井川の渉り に下知なし給りけれは、輦臺に胡座して越たるは、有かたく覺ゆ

一聲の川に浮けりほとゝきす

大井河や浪も幾筋青嵐
   星飯

大井川うき草もたぬ水の色
   烏明


 宝暦13年(1763年)3月1日、二日坊は大井川を渡る。

大井川見るも心くるしきに、やかて川越の頸筋にまたかれとせむ

解て來る雪ハおそろし大井川
   坊

冴かえる我も童部や肩車
   凌


 明和6年(1769年)6月、蝶羅は奥羽行脚の帰途、大井川を渡る。

   大井 水凋て、河越の追從もいとおかしく

こゝろよく撫子咲ぬ大井川


 明和8年(1771年)4月18日、諸九尼は大井川を輦台で越えている。

菊川もほど過て、大井川にいたりぬ。此程の雨に水高く、きのふまで渡しもとまりけるが、けふなん川の口あきぬるよし、聞くもうれしく、いざわたしてといへば、おかしく作りたる台にかきのせ、人あまたしてかつぎ行、肩の上に波打こして、あやふくおそろしく、いきたる心地もせで、目ふさぎ念仏申すうちに、わたりはてぬ。


 安永元年(1772年)9月9日、 加舎白雄 は松坂から江戸に帰る途中で大井川を渡る。

 大井川

   馬のあご人の額や大井川

「東海紀行」

 天明4年(1784年)、田上菊舎は大井川で句を詠んでいる。

   大井川にて

さればこそ浮草もなし大井川


 享和元年(1801年)3月2日の夜、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で、風雨の中、大井川を渡る。

嶋田の宿には挑灯・たい松星のごとくかゝげて、河原にむかふ。藤枝のほとりより雨すこしふり出しが、こゝにいたりて西風はげしく、空は墨をすりたらんやうなるに、雨さへふりまさりぬ。輿は蓮台の上にゆひつけて高くかゝげ、たい松うちふりて、海(河)上のかたにあゆみゆく。河原の石のおとなりわたりて物すごきに、もろ人よいとよいとといへる声を出して、高くかゝげゆくめり。聞しにも似ず河の水あせて、思ふさまにむかひの岸につく。また河原を右へ、土橋をわたり、足なふみあやまちそなどかたみにいましめて、くらき道をたどりたどり挑灯の光をたのみて、金谷の宿につく。


 享和2年(1802年)5月、曲亭馬琴は「島田の川留」を書いている。

連日の雨に大井川往来なければ、岡部より島田の間に、諸侯みちみちて、いとにぎはへり。予は二十日の夕島田に入る。予がしれる因幡屋てふ家も、森侯の本陣となりぬ。この家旅店にあらねど、當めるものなればかくの如し。よりて因幡屋の向ひ、何がし源六とかいへる商人の家に逗留す。時々の飲食は因幡屋より持来りて、饗応しぬ。夜中駅中の繁昌、小人の小うたなど、しばらく江戸に在るが如し。川は十五日より二十二日にいたりて、はじめて明けぬ。

   妹がゆふ島田の駅にとめられて かみへゆきゝのとゝかぬぞうき

『羇旅漫録』

大井川河川敷 に「島田の川留」の碑がある。

 文化2年(1805年)11月13日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で大井川を渡る。

日坂をこえて小夜の中山をゆくに、小雨ふり來れり。大井川も水落て、河原の石のみ出たり。一瀬はかちわたり一瀬は橋なり。嶋田の宿をへて瀬戸川をわたる程に日くれぬ。藤枝の宿は本陣治右衛門なり。


ふたりも値段とりきはめて、蓮臺に打乗見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちを捨なんとおもふほどの恐しさ、たとゆるにものなく、まことや東海道第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮臺をおりたつ嬉しさいはんかたなし

   蓮臺にのりしはけつく地獄にておりたとこりがほんの極楽

斯うち興じて 金谷の宿 にいたる。


 嘉永4年(1851年)4月2日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、大井川を肩車で越る。

一、二日  晴。寅前、懸川を發す。 日坂小夜の中山 を超え、 菊川 を過ぎて金谷臺を超ゆ。此の間險阻崎嶇、人馬共に困しむ。肩輿にて大猪川を過ぐ。是遠駿の界なり。


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