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私の旅日記

菊川坂石畳〜間の宿菊川〜
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今日は天気がいいので、東海道の菊川坂を歩いてみることにする。

菊川坂と金谷坂

 江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であっため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。

 この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。

 菊川坂は、21世紀の幕開けの事業として平成13年1月21日静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち約500名を越える皆さんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700メートルの石畳が完成しました。

  金谷坂 は、町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって、平成3年11月24日子供たちからお年寄りまで500名余の町民の力で道普請に着手、翌年3月に400メートル余の石畳が出来上がりました。

 江戸時代後期の石畳、そして平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人への、あるいは平成の助郷役の人たちへ思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてください。

島田市

菊川坂石畳


 この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。

 江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣12か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、380間(約690m)あったともいわれています。

 しかし現在では昭和30年代から40年代にかけての工事により、一部破損されたところもありますが、このように長さ161m、最大幅4.3mを残しております。

 かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければならなりません。

島田市教育委員会

 建久元年(1190年)10月13日、 源頼朝 は上洛の折菊川の宿に立ち寄る。

 遠江の国菊河の宿に於いて、佐々木の三郎盛綱小刀を鮭の楚割(折敷に居ゆ)に相副え、子息小童を以て御宿に送り進す。申して云く、只今これを削り食せしむの処、気味頗る懇切なり。早く聞こし食すべきかと。殊に御自愛す。彼の折敷に御自筆を染められて曰く、

   待えたる人の情もすはやりのわりなくみゆる心さしかな


菊川坂石畳と間の宿菊川

 菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ2例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。

 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。

 承久3年(1221年)の承久の乱で鎌倉幕府に捕えられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。

 更にその100年後、元弘元年(1331年)の元弘の変で捕えられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。

 江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。

 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。

●中納言宗行卿の詩
 昔南陽県菊水 汲下流而延齢

 今東海道菊河 宿西岸而失命

●日野俊基の歌
 古もかかるためしを菊河の

    おなじ流れに身をやしづめん

島田市教育委員会

菊川の里


金谷宿
   日坂宿

宿場まで十八町
   宿場まで一里

間の宿、菊川

間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3〜4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 「菊川」 が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることはできませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。

島田市観光協会

 宗行卿詩碑 日野俊基歌碑


 源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221年)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の7月10日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。

   昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ

   今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う

 承久の変から約100年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して1首の歌を詠んだ。

   いにしえもかゝるためしを菊川の

    おなじ流れに身をやしづめん

 間の宿菊川は史跡とロマンの里である。

島田市教育委員会・観光協会

 仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中、菊川で中納言宗行のことを書いている。

 此の山をも越えつゝ猶過行ほどに、菊川といふ所あり。去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人、罪有て東へ下されけるに、此宿に泊りたりけるが「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齡を延ぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」とある家の障子に書かれたりけると聞置たれば、哀にて其家を尋ぬるに、火のために焼けて、彼言の葉も残らぬよし申ものあり。今は限とて残し置きけむ形見さへ、あとなく成にけるこそ、はかなき世のならひ、いとゞあはれに悲しけれ。

   書きつくるかたみも今はなかりけり跡は千年とたれかいひけむ


 弘安2年(1279年)10月24日、阿仏尼は 小夜の中山 を越え菊川に泊まっている。

 廿四日、昼に成て、さやの中山越ゆ。事任(ことのまゝ)とかやいふ社の程、もみぢいと面白し。山陰にて嵐も及ばぬなめり。深く入まゝに、遠近(をちこち)の峰続き、異山に似ず、心細く哀也。麓の里に菊川といふ所にとゞまる。


 元禄11年(1698年)6月7日、 岩田涼莵 は菊川で句を詠んでいる。

   中御門の中納言家行、西岸に宿して命を失
   ふと殘されし、菊川といふ處を過るに、

松陰や目にしむ汗もとゞまらず


 宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、菊川で中納言宗行のことを書いている。

此先の谷陰菊川と云所にて、承久の比身をうき島と讀て柱に歌を申殘せしむかしをおもひ出て家々をながめて過く。

   かはる世や柱に蠅のはしり墨


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