このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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金谷坂の石畳
〜鶏頭塚〜
長光寺
から金谷坂の石畳へ。
今日は石畳を歩いてみる。
島田市指定史跡
「東海道」
金谷坂の石畳
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道
金谷宿
と
日坂宿
との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであるといわれています。近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。
いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのは、この金谷坂のほか、
箱根峠
、中山道十曲峠の3個所だけとなりました。
島田市教育委員会
石畳茶屋を過ぎると、右手に庚申堂がある。
庚申堂の手前に鶏頭塚があった。
曙も夕ぐれもなし鶏頭華
この句によって「鶏頭の巴静」の雅名を得たそうだ。
鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある。塚の名のいわれとなった、
「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」
の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744年)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。
巴静
というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが、風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。
なお、塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され、徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としたことが口碑として残っている。
東海道 金谷宿
金谷坂の石畳
石畳の道は思いのほかすべりやすかった。
長寿・すべらず地蔵
このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらずの地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事にも願いが叶うということからきています。
享和元年(1801年)3月3日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で金谷坂を上る。
金谷坂をのぼる。道ことに険し。こゝは初倉山といへる処なりとぞ。坂の上より右のかたをみれば、金谷の駅の人家目の下にみえて。よべわたりし大井川の流もみゆ。
『改元紀行』
「私の旅日記」
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