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俳 人

太田巴静
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 通称弥平次。 沢露川 に師事。別号反喬舎、六々庵。「鶏頭の巴静」と言われた。

 延宝6年(1678年)、美濃竹ヶ鼻に生まれる。

 元禄17年(1704年)2月24日、 丈草 没。

禁足の滿てゝや直に花の旅


 正徳2年(1712年)、35歳の時に名古屋に出て剃髪。

 享保10年(1725年)7月3日、巴静は下里 蝶羽 を訪ねる。

七月三日 照 巴静坊来り、表八句有。

夕暮の秋まだ若し星月夜
   巴静

 風雅の橋をかけに七夕
   蝶羽

『千代倉家日記抄』(蝶羽日記)

 享保12年(1727年)4月、 『雪白河』 (曇花房魯九編)六々庵巴静序。

 享保15年(1730年)4月5日、巴静は 千代倉家 を訪れて泊まる。

四月五日 曇 なごや俳諧巴静坊来泊ル。此方へ句好ム。

芍薬や猫も音せぬ古畠
   風和

 新茶挽日はうす嗅に来ル
   巴静

するすミの海から山へ虹たちて
   キ世

四月六日 晴天 巴静坊戻ル

『千代倉家日記抄』(蝶羽日記)

 享保19年(1734年)2月、巴静は江戸に下る。5月まで滞在。『吾妻掲(あづまからげ)』刊行。この旅で 佐久間柳居 を知る。

 享保19年(1734年)3月、 俳諧木の本』 (巴静撰)自序。

 元文5年(1740年)6月、佐久間柳居 は名古屋に立ち寄り、巴雀や巴静と連句会を興行。

 元文5年(1740年)、『かほり山』(巴静編)。

 寛保2年(1742年)、窪田桐羽は名古屋に出て巴静に入門。

 寛保3年(1743年)、桐羽は巴静を飯田に迎える。

 寛保3年(1743年)、名古屋 大須 に「月 塚」を建立するが、この句碑は不明。

  『諸国翁墳記』 に「月 塚 尾州名古屋 大須 在 六々庵巴静建 三井寺の門たたかはやけふの月 芭蕉」とある。

翁塚
   三井寺の門敲ばやけふの月

東華坊塚
   三日月の空に咲たは何の華

六々庵塚
   名月や都の夜の華もどり

『月塚雅莚』

寛保4年(1744年)2月19日、67歳で没。

   巴静を悼

菊畠の一鍬つゝや記念わけ


 延享4年(1747年)8月、『月塚雅莚』刊。

 寛延2年(1749年)5月、『六々菴発句集』(理然編)跋。

 宝暦元年(1751年)2月、如是庵理然は巴静の七回忌を記念して大津の 龍ヶ丘 に「巴靜碑」を建立。



門弟に 横井也有 がいる。

 寛延4年(1751年)10月27日、宝暦に改元。

 宝暦6年(1756年)2月、巴静の十三回忌に門人たちが師の残した笠を 鴨江寺 の境内に埋め、その上に師の句を刻んだ石碑を建てて追善供養を営んだ。



六々庵巴静翁 笠塚

頼むそよ案山子の笠の身の終り

金谷坂の石畳に 鶏頭塚 がある。


曙も夕ぐれもなし鶏頭華

巴静の句

尻ためて居らぬ人あり鴨の声


一声やばせをにひゞくほとゝぎす


   鳥海ノ暮雪

飛鳥の空に声なし峯の雪


炉塞や櫓は馬て伊勢まいり


夕暮も曙もなし鶏頭華


一羽飛び二羽とびのちは鵆哉


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