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紀行・日記
『壬申紀行』
(貝原益軒)
元禄5年(1692年)4月27日、貝原益軒は筑前国荒津の浜を船出して、5月1日に播磨国室に着く。5月26日、江戸に入る。
貝原益軒(名篤信)は筑前黒田藩に仕えていた学者。
正徳4年(1714年)10月5日、83歳で没。
ひとゝなり性僻みて閑寂にふけるはわが本意なれど、いかなるちなみにや、わかき時より年毎に旅の空にうかれ出て東往西還の客となりてやむことなきも、又是わが命遇のもとより定れるにや。
ことし元禄五年、わが犬馬の年六十三歳。卯月二十七日、筑前国荒津の浜より船出して、まづ今津に至る。
されど風順なれば舟のゆくこととぶがごとくにして早く赤間が関を過て、あけの日はすでに周防国竈門の関にいたりぬ。
今俗には上の関といふ赤間が関を下の関といふに対せり
一夜一日のあいだに六十里をはせゆくこと、まことに造化のしわざすみやかなるかな。猶日々に日和よく、をひ風ふきて、五月朔日播磨国室の湊につきぬ。
5月5日、兵庫から船に乗り、翌日難波に着く。
五日、けふは端午なり。あるじ例の事ども、かたばかりにことぶきす。晩に兵庫より船にのり、翌の日、難波の港につきぬ。七日の朝、船よりあがり大坂の客舎にとゞまる。
5月10日、
法隆寺
を通り抜ける。
十日の朝、並松を出て又法隆寺の門内にいたり、すぐに後門にいで郡山のかたにゆく。かねては初瀬をと志しつれど、道けはしく行なやむよし聞へ侍れば、笠置越におもむく。法隆寺の東に斑鳩のさとあり。今は神屋と云。斑鳩の宮のあと、道の南にあり。厩戸皇子の乗給ひし甲斐の黒駒を埋し墓あり。駒塚と云。
5月10日、
唐招提寺
を訪れる。
それより招提寺にいりぬ。此間久しく開帳ありて、けふを限りなるよし聞ゆ。まうでくる人多し。門の額は唐招提寺とかけり。孝謙帝の宸翰なり。講堂の内、開帳の書画霊宝品々あげてかぞふべからず。此比取出して人に見する品々を目録一巻としてうる。諸堂の内見つくしてのち、寺門を出づ。凡此寺は聖武の御時、唐僧鑑真和尚創立せり。今に至て星霜をふる事九百七十九年、幸にして一度も回禄の災にあはず、諸堂皆創立のまゝなり。世に類なき古代の梵刹也。
平城
(ナラ)
にいりぬ。
興福寺
、猿沢の池、春日野、春日御社、若草山、手向山、若宮八幡宮にいたる。此宮近年修造と見へて新しく、甚壮麗をきはむ。
二月堂
、三月堂をすぎ東大寺に入。鐘のこゑ、いかづちのふるふがごとし。大仏殿建立のいとなみ、何となくいそがはしと見ゆ。
二月堂
5月13日、まず
外宮
に参拝している。
十三日。雨ふる。梅雨の内なれど大坂を出しきのふまで空はれしが、けふはあめしばしばふりてわびし。先、外宮へまいり幣を奉る。再拝して後、四十の末社をめぐる。あるじの家より外宮へは、あとへ帰る道なれど、およそ両大神宮へまうづる人は、みおやの御神なれば先外宮へまいることはりなれば、それにしたがひぬ。
5月13日、
宮崎文庫
を訪れている。
あるじのおしへにて、あないの人を先だて、宮崎の文庫にいたる。宮崎とは外宮のうしろ、岩戸のあんなる山のつゞきの東の出崎にて、其あたりを宮崎と云。文庫は四十年前に創立す。此二十年前、おほやけより此文庫に年毎に米弐拾石をよせ給ふ、今に至りてたえず。
5月13日、
内宮
に参拝して式年遷宮のことを書いている。
神楽殿
凡、内外の宮はいにしへより二十年毎に改めつくり給ふ。是を式年とす。此故に、いつも正殿のかたはらにふるき神殿ありて、宮つくり同じさまなり。神門など、かやぶきあれてみゆれど、式年の内はふき改めず。外宮に四所の神殿あり。内宮に七所の神殿あり。皆、式年ごとに改め作らる。
5月14日、貝原益軒は白子に泊まる。
寺を出て上野の駅を過、白子と云所に宿す。是より桑名、熱田、三河の吉田にも舟にて渡る所なり。此所を鼓が浦と云。不断桜とて四時に花咲、名木の桜あり。此木は白子の内、寺家村観音寺の庭にあり。
十五日。白子をいづ。朝は雨ふる。神戸
(カンベ)
は石川若狭守殿領地にて。住給ふ。神戸を出れば高岡川あり。此比の大雨に洪水出て、河のわたり四町ばかりみなぎり流る。舟なければ渡るべきやうなし。せんすべなくて、いとすくやかなる里人を雇ひ、肩にとりて渡る。水深く、わたり遠ければ、あやうくしてなやみくるしめり。されど此役夫は、みたりの力あるつよきおのこにて。六十になれど猶すまひをよくとりて。此あたりにては名を得し男となん聞ゆ。馮河するには、いとたのもし。水のいとふかき所は、わかいさらゐをひたす。からうじて川をわたり追分にゆき、それより五十町を過て四日市に着。桑名にいたり、船にのり、海をわたらず川をのぼる。順風ふきて、やがて尾張の佐屋と云所につく。
佐屋川は、尾越川洲股川の末なり。尾越川は木曽川の末なり。洲股は美濃がおく郡上よりいづ。二の川、下にて一となりこゝに流る。伊勢の長嶋と云所、此川の西にあり。其西にも川有。長嶋は二の川の中に有て長き嶋なり。山はなし。佐屋より陸地を行。曇りなき日は此辺より北に遠く、加賀の白山見ゆ。夏の比も麓まで皆雪なり。又、東北に木曽の御嶽、駒が嶽など見ゆ。けふは曇りて見えず。神守に行て宿す。此あたりの事、昔年通りし時、あづまぢの記とてしるせし巻にのせたり。今こゝにしるさず。
5月16日、
笠寺
に至る。
笠覆寺山門
十六日。雨ふる。万場、岩塚を過、熱田にいで鳴海にゆく。右の方の海辺に宵月の浜あり。空はれし時は、海人の家、塩屋など見ゆれど、けふは曇りて見えず。星崎、夜寒の里など云名所、皆其あたりに近し。笠寺に至る。此寺、号は竜福
(ママ)
寺天林山と号す。此寺、道の側にあり。其さき、鳴海と池鯉鮒の間、南の方、
桶間
(ハザマ)
とて信長公の今川義元を打亡ぼし給へる所あり。大道の右の傍にあり。義元の墓あり。
5月17日、
鳳来寺
のことを書ている。
十七日。雨やみぬ。御油の東に本坂越に行道あり。是より三河の鳳来寺にもゆく。御油より鳳来寺に九里あり。御油より大木と云所に宿あり。其先に新城と云所菅沼氏の居所なり。鳳来寺は山上にあり。峰に薬師堂あり。いと美麗なり。僧坊多し。風景甚うるはしといふ。寺領七百四拾石つく。天台宗なり。又、其辺に、東照大権現の御宮あり。寺領七百二拾石つけり。われ遊観の志あれども道遠ければゆかず。
5月18日、
佐夜の中山
を越え、金谷に泊まる。
十八日。朝、浜松をいづ。見付の南の方に、今の浦のとて大なる池あり。古歌あり。天竜川、洪水いで川ひろくして船おそきゆへ、行人、川岸に多くつどひて舟の来るをまつ。のるもの、をくれじとさきをあらそひ、かまびすし。佐夜の中山を越行ば、年たけて又こゆべしとおもひきや、と読し哥、今わが身のうへになずらへて、感慨きはまりなし。又、けゝらなくよこおりふせる、とよみしは、佐夜の中山の北によこをれて甲斐が峯をさやかに見ざるを、うらめしく思ひていへるなり。今夜は金谷にとゞまる。
5月19日、
大井川
を渡り、江尻に泊まる。
十九日。朝、大井川をわたる。此比、日なみよければ、水あさくて心のどけし。安部川いとあさまし。此河原より北に遠く、甲斐の白峯見ゆ。常に雪あり。安部川の上に木枯の森有。けふは江尻にとまる。
5月20日、江尻から
興津
に至る。
廿日。江尻を出て興津に至る。かねて甲斐の国にゆかんとおもふ志ありしかば、まづ興津川をのぼりゆく。
5月21日、
西行坂
越えて身延に向かう。
廿一日。万沢を出て、半里ばかりさきに、西行坂あり。其上に西行松とて大なる松あり。万沢より南部へ三里、南部より身延へ三里、すべて興津より身延まで十二里なれど、其間、深山幽谷にて路けはしく、河おほければ、かねておもひしよりは、はかゆかず。
5月21日、
身延山
を訪れる。
今夜は身延にとゞまる。身延は名所なり。古歌あり。身延の寺は身延山久遠寺と号す。高き山の下、谷の上にあり。三方には山あり。いとものふかき谷の中なり。まへなる川に橋の長五六間なるあり。柱はなくて桁ばかりにて、上に板をならべり。大なる惣門あり。内にいれば町あり。
町を過て寺へゆけば、大なる三門あり。門上は閣なり。其高大美麗なる事、京都相国寺、南禅寺などの三門にもおとるまじと見ゆ。
三門を過れば甃
(イシダゝミ)
一町ばかりありて、やうやく高し。其上にけづれる石階の高きあり。両のかたはらにきれる石をもて、へりとす。のぼり行ほど石階八所にありて、其間にたいらかなる所、各一間ばかりあり。八所つらなれるきざはしのかず、すべて三六七級あり。最下より下をのぞめば、八所の石階、一に連り見へて高き事、天をのぞむがごとし。通計は凡百間ばかりもありなん。きざはしをのぼりつくせば上に二王門あり。二天門といふ。門にいれば即本院なり。
祖師堂
5月21日、身延山の
奥の院
に上っている。
是より身延山の上にのぼれば、二十余町有。是、奥の院なり。本院のうしろ、奥の院の堂は、いと高き所にあり。其上よりのぞめば、北に富士山、甲府など見へて、美景なり。七面明神の社は、其南に谷を隔、殊に高き山の上に有て、身延山と遠く相望めり。七面まで町より四里有と云。七面山の上に大なる池あり。山の面七所にわかれたる故、七面といへり。奥の院にも八間四面の堂ひとつあり。水呑と云所より、坂いとけはしといふ。
5月24日、三嶋大社を訪れている。
三嶋の社は数年前、回禄のわざわひありて、いまだ神殿なし。神領五百三十石有。箱根路をけふこえゆけば、いさゝか感慨のこゝろいできぬ。老の身のなすことなく、才徳のつたなくて、むかしこへし時にかはらぬことを、はぢて思ひなげく。三嶋と箱根の間に伊豆相模のさかひあり。今宵は小田原にやどる。
5月25日、酒匂川を越える。
廿五日。夜いまだあけざるに、やどりを出行ば、酒匂の川水ふかくして、川こしのおのこをあまたやとひてわたる。此里を酒匂と云、川を酒匂川と云。しかるに、さかはといへば世俗は川の名とのみおもへるはあやまれり。
5月25日、藤沢から
江の島
に渡る。
藤沢より絵嶋に一里に遠し。潮あさければ船にてわたらず、里人をやとひ、背にをはれてわたり、あなひをつれ、絵嶋明神の社、所々見めぐり、山をこえて竜穴にいたる。いは屋の口はひろくして、よこは四間ばかり、高さは五六間もありなん。
5月25日、
鶴岡八幡宮
に参詣している。
鶴が岡の八幡宮にまいりぬ。神廟はいとたかき所にありて、石階をおほくのぼりゆく。神殿は三葉四葉にみがきたて、所がらいとめでたし。昔しばしば見し事は久しければ、わすれぬ。
5月26日、貝原益軒は雨の中江戸に入る。
廿六日。雪の下のやどりを出、建長寺、円覚寺に入ぬ。けふは雨ふり、江戸まで道遠ければ、あはたゞしく出ぬ。それより山の内を過ゆく。道の雨泥ふかくなめらかに、僕も馬も行なやみ、くらの上あやうければ中ごろよりかちにてゆく。道すべりて又なづめり。
十塚
にいたるまでの艱苦たへがたし。雨いたくふり、
河崎
には馬もなく、かたがたとゞこほり、日すでに暮て、江戸にはいぬの時につきぬ。
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