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私の旅日記
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2008年
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江の島
〜稚児ヶ淵〜
弁天橋から遊覧船で江の島裏の岩屋に向かう。
遊覧船から見る江の島
江の嶋や蘭の花ほど青みたる波がしら立つ桟橋のもと
与謝野晶子「鎌倉詠草」
遊覧船とすれ違う。
稚児ヶ淵の海
浪を見つゝ子供に蜜柑たべさせる
井泉水
岩屋に与謝野晶子の歌碑があるそうだ。
沖つ風吹けばまたゝく蝋の灯にしづく散るなり江の島の洞
相州江ノ嶋岩屋之図
貞享2年(1685年)5月、榎本其角は箱根木賀山の温泉に赴く。帰途江の島を訪れた。
江の島
微雨の窟座頭一曲聞へ給へ
『五元集拾遺』
元禄5年(1692年)5月25日、貝原益軒は藤沢から江の島に渡る。
藤沢より絵嶋に一里に遠し。潮あさければ船にてわたらず、里人をやとひ、背にをはれてわたり、あなひをつれ、絵嶋明神の社、所々見めぐり、山をこえて竜穴にいたる。いは屋の口はひろくして、よこは四間ばかり、高さは五六間もありなん。
『壬申紀行』
元禄11年(1698年)5月末、岩田涼莵は伊勢を立ち、6月12日、江戸に着く。
江 嶋
むかふ日や萱も薄も辨才天
『皮籠摺』
宝永5年(1708年)6月、
明式法師
は鎌倉から江の島を訪れている。
かまくらのつゐで固瀬
(かたせ)
の波におぶねさして、江の島 に渡る。島の美景いはむかたなし。天女のやしろ三所には、おのおの見めくる。下の宮のあないのもの、脛たかくかゞげて、岸をとぶこと通を得たり。七里が濱まなこのまへに現す。かくてもへける蜑の子ら搗和布
(かじめ)
をひろひて、波を追ひ熨斗をさらすに、晴を乞ふ。折ふし伊豆山の方夕立もよひて、風先ひやゝかに、波おくりつ。岩根に汗を入る。
離れ鵜や妻子だしぬく雨の松
『白馬紀行』
元文2年(1737年)6月、佐久間柳居は箱根の帰りに江ノ島で句を詠んでいる。
江の嶋
琵琶聞かぬ日もうつむくや百合の花
麦阿
『夏山伏』
安永9年(1780年)4月17日、蝶夢は江戸からの帰途、江の島へ渡った。
十七日、海の面静に、風あらねば江の島へわたる。上下の堂塔、異国の碑文など見て、渚に下りて、龍穴に入りみる。天女のあらはれ給ひし巌屋といふ、其奥いと深く、松どもともし、打ふりて行。此磯より海をへだてて、富士の山麓のながれまでかくれずみゆ。今は年頃の願ひも心やれるおもひなして、下りゐて詠。
『東遊紀行』
天明8年(1788年)4月18日、蝶夢は再び江の島へ渡った。
天女の岩窟は、しほじを経てはるかの奥深く入。江の島やさして塩路に跡たるゝ神はちかいのふかき成べし」と、古歌にも有。
江の島の奢や夏の雨曇り
『富士美行脚』
加舎白雄
の句がある。
江の嶋岩屋にて
はる風や潮に手洗ひ口そゝく
『黒祢宜』
芭蕉の句碑
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