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五升庵蝶夢



『富士美行脚』(木姿著)

 天明8年(1788年)正月晦日未明、鴨川東岸の宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)から出火、「天明の大火」である。

 2月26日、 蝶夢 は木姿を伴い中山道を下り江戸へ旅立つ。3月24日、江戸に着き、4月16日まで滞在。東海道を上り、5月6日、京へ帰る。

 今年の春の花の都は、時の間の煙となりしに、仮りの宿りはことゆへのなきにしも、せつに思ひあまりありて、岡崎の老師とともに甲斐がねや武蔵野ゝ旅に出るとて、

   逢坂の関に出てこそはつ桜

老師も、都のかたをかへり見て、

   焼のこる桜かぞへて見ぬもおし

きさらぎ廿六日、青天。大津、菊二子の餞別の発句に、

   行先の花にあそばん月と駒

    清水もぬるみ関越る今朝

此句に脇をつけて、道すがらの人々[に]一順の一句を乞て、百員の俳諧を思ひ出とす。

 粟津・瀬田と湖水の眺望も、いつもながら飽ず。野路の玉川を経て、 草津 山城屋に泊る。

 森山・ 野須川 ・馬淵、住蓮・安楽坊の石碑も哀に鏡山の麓を過るとて、

   菜の花にあたりまばゆし鏡山

 「あづまじの思ひ出にせんほとゝぎすおひその森の夜半の一声」とかや詠じ給ひしところもゆかしく、

   思ひ出や都をあとに百千鳥

 愛知川の本陣仮興亭に訪ひしが、折ふし雨ふりてこゝに泊る。

   大名の御枕かせよ春の雨

此句に続て、廿七日、爰の人々と終日の雨に遊ぶ。

 翌廿八日、里秋・師由・引牛など老分を送りて多賀の社に詣で、其由法師・塘里子などに対し、人々とともに 五老井の旧地 を尋るに、夢師、「こゝは彼〈五老井の記〉に書しにたがはず、其世の面影を見るがごとく、桜はほころべどさすがにものいはず、椿は落て徒に道をうづむ。水すじをたづねて見れば、柳いつか朽にけん。一字をかへて思ひをのぶ。

水すじを尋て見れば柳なし

静さや古井にのこる春の陰
   予

 原村に 昼寐塚 あり。床の山の麓とかや。すりはり峠は、湖水の絶景なり。茶店の額に、「望湖堂 朝鮮仁山」「望広懐 中山梁素」。

   湖つきじ見ぬ唐土の春霞

 『太平記』にのせし両六原の、四百余人自害しける番場の辻堂とかや。番場の吉野や泊。

 廿九日、朝途出の景色に思へば、鶏声茅店月、人跡板橋霜とありしもかゝる所にこそ。醒が井の宿には、そのかみ日本武尊、腰かけ給ふける石とて清水の流にありて、いときよし。此水を矢立にひたす。

   世にしるき神のめぐみや花の水

  柏原 は、伊吹山の麓にて、艾うるもことはりぞかし。「とし月はいつか伊吹の峯におふるさしも思ひの煙としらまし」と詠じ給ひしも遠くながめつゝ、今は麓にきて老し身のほどを思ふ。行先の山中に常磐御前の廟所ありて、むかし翁の句に、「 義朝の心に似たり秋の風 」とありしとや。

   世をせまく風にまかせよ落椿

 関の藤川に橋あり。むかしに替る代のためしなるを、

   静さや関の戸さゝぬ春の山

 月見の宮、向にあり。 不破関 、駅也。此あたり、一円に関ヶ原と云。古歌に、「鶯の啼つる声にしきられて行もやられぬ関ヶ原哉」とよまれしに、

   駒とめよ鶯にきく此あたり

 野上の宿、あれにし跡は、狂女のむかしもなをあはれにこそ。竹中、わらじ売あばら家の辺も興しありて、

   暮おしき野上の里や扇凧

垂井の宿 なる君里主は、老師の旧友とて訪ふ。暫く物がたりのうちに、珍味などもてなされて出る。熊坂が住し青野が原も、今は花咲く木々の中に、

    行道やもの見の松に春の風

 青墓の宿も過て、幽の東に又松の一木は御勝山とかや。ゆゝしき 赤坂宿 なる蘭戸亭に留。其日は 金生山 に登り、美濃国一円に見る。

   石生る山やうごかぬ八重霞

 弥生朔日は、雨ふりてこゝに休ふ。

   泊れとて春雨きかす軒端哉

と云老師の句に続けて、一座の俳諧営。

 二日、日和に望行。美江寺宿、河渡、渡し舟あり。飛騨の流れにして、伊勢の海へつゞきて大河也。岐阜を左に見て、加納の城下に至る。各務野かふかふと広野なれば、草臥の足をやすむ。向ふの 犬山の城 も里数を隔て、なつかし。「はし鷹の羽風に雪はちりみだれ朝風寒き犬飼の山」と歌によみしもことはりならめ。 鵜沼宿 にとまる。

犬山城




  西行坂 、此所伊勢京道の別、是より木曾の本街(道)なり。 太田 よりこゝまで、道十三里十二丁かや。十三峠あるよし。伏見・御嶽・細久手・大久手といふ所は通らず。西行坂にて、

   歌人の名残の雪や杖の先

大井も過、茄子河に泊。

 五日、晴天。中津川、ゑな山の麓、船子せ山とやらん云。 落合 信州木曾路と飯田街道の別 は、橋を越るなり。馬籠・押手・蘭は、谷深き木曾の山中、家々に檜笠くむ、櫛挽くなるは、賤女のわざなりぬ。広瀬の穴沢源右衛門にやどる。

   榾焼や弥生なかばのなだれ雪

 其夜はまどひして、帚木のことまめやかに老師問ひ給ふて、六日には、主じ親子が案内にて二十町計脇へ入て保上(土)が原といふ所より見せしむ。其帚木のあたりは、むかしの道とて、飯田へ出る「御坂ごえ」と申よし、 園原 ・臥屋・駒場など今に有とかや語る。保上が原より西南のかたに、覆ひかさなる木々の中に、一木は高く、其形は酒造る家に遣ふ箒草のごとし。

はゝ木々やありとは見れど朝霞
   蝶夢

帚木やその原に残る朧月



 九日、晴天。太田切橋・飯島、こゝに 嵐雪 の発句塚あり。

雪中へゆきを投こむ遊び哉

苔よりも雪の花さけ塚の上
    蓼太

 追引・中田切川越、大竹をもてわたす。雪解の水に石も流るゝと見ゆ。小町や茶店に、都の浪人とて揚豆腐の名物有。上穂・小田切川・宮田、沢渡、大河を東に見て行。是や諏訪湖より遠江へ落るを天龍川と唱。稲辺の川の向谷間に高当の城の見へて、『甲斐軍記』のことを思ふも更也。殿村に泊る。 也有 、七十三にて 翁塚 を建る。

    花の陰うたひに似たる旅寐哉

翁 塚


 十日、快晴。木下・松島、松本道の別有。天龍川をわたりて諏訪へ趣く。

   信濃路や盛くらべる梅桜

湖水。天龍川の落口。岸にそふてのぼれば、湖辺の岡の屋・小口、此ところ、松本・福島、塩尻峠を越えて出ると飯田街(道)との出合なり。こゝにはじめて不二眺望、諏訪湖を前へにうけて重る山の南にあたりて、弥生半の空に真白にぬつと雲をつらぬく気色、まことに三国一の名山に、われを忘れて暫く居しか[ぬ]る。

   湖解て富士の白雪影さむし

下諏訪、湯の町、油(屋)にやどりて半日温泉入てやすらふ。

 十一日、余寒甚しといへども上諏訪へ趣く。高島の城は湖水に築いでゝ、まことに甲斐の根城なりしことも思ひ出らるゝ。この町の自徳子を訪ふに、翁の雪月花に筆をとり給ふ器物見せらるゝを、

   水入の囀りきくや諏訪の湖

 幸なる哉、けふや上の諏訪 明神の祭とて、人々群参せらるに時得て、ともに神宮寺へももふでる。本社、世に稀なる宮殿、軒両、茅葺の新敷宝殿、軒の滴、寒暑とも絶ずとかや。普堅(賢)堂・布橋きらびやかならず、古代の様也。十軒堂は廿町計所を隔つ。こゝにあらゆる供物、贄競の中に鹿の頭七十二持て参るも、神妙不思議とや云ん。

   生のばす命を鹿の頭かな

あるほどの禽獣魚肉を魚板にのせて捧こと終て、群参のものいたゞき酒酌こと、広大なるよし。けふや又、此国の人々大木を八本、山奥より引出して、卯月の祭礼に年々新に建るを、「御柱」とかや聞へて大造なり。

金山穂屋の宿、御社山とも。「 穂やのすゝきの刈残し 」と翁の詠じられし面影もありて、此あたりのいと哀なるに、夜寒の比は妻乞ふ鹿の声を歌によみ給しも、ことはりなりぬ。机村、蔦木に泊る。

高島城


 堀畑・白妙・ 台が原 ・水木・円井(ツブライ)、祖母石もすぎて川原づたひに柳の林を過るに、晴天の裏山に旅の労れを忘れて草筵に座し、やゝときをうつす。

   忘れてもわすれぬふじの面影を
      忘れてさらに向ふ富士かな

と詠じ給ふも、さらに、

   としどしの願ひも甲斐の国にきて
      不二のうら見も晴るゝいやよひ

と狂歌して、同行に語らひ行。

 韮崎・龍王・宇津谷・府中、来迎精舎の方丈は、老師法縁有りて、十三日も逗留して所々参詣す。中にも 新善光寺 は、河中島より信玄公甲府に遷して、籠仏と申奉るは三国伝来の三尊仏とて、開帳の折に逢ふも偏に尊し。勅封の御印状を拝して、難有と申もおろかにめで(た)し。此寺西なる東光寺の上に夢見山あり。

   蝶とともに我も昼寐や草筵

 東の方にのぞめば、 酒折の宮 。其むかし 日本武尊、征蝦夷而後、此(処に)居給ふとかや。尊、のたまひけるは、「ニイバリツクバヲイデゝ、イクヨカネツル」。火焼の老仁、次句、「ヨニハ九ヨ、ヒニハ十カヲ」とありし、是を連歌のはじめとかや。

我旅も幾夜か寐つる春の夢
   蝶夢

言の葉の花は幾代か咲かへて
   木姿

 十四日、 身延山 へ詣とて、来迎寺の住僧に、玉川淨降寺教順和尚を案内として、老師を賞(招)ぜらるゝ。西条・曲淵、不二見へる。ふじ白根、花の梢の朝ぼらけしつ、興なり。中辺・布施・釜なし、渡し舟。南五・青柳まで四五里がほど行て、船に乗りて富士川を六里下り、身延山の麓、葉切といふ所よりあがる。双門の額に「開会関」と有。夫より左右に町屋・坊舎ところどころにありて、三門を登れば、伽藍・僧坊・回廊、棟を並ぶ。幽の谷の底に壇所現然たり。西上人の歌によみ給ひし鶯谷は、今の回廊の所とぞ。

囀の真似して渡る小僧哉

日にそふて桜匂ふか久遠山

(蝶夢云)「『法華経』の唯有一乗法、無二亦無三のこゝろを、

此上に二も三もなし山ざくら
   蝶夢

囀りも余の声はあらず身延山
   同

一天四海皆帰妙法といふに、幽谷遷喬の章まで思ひつゞけて、

その鳥よ此谷出て四方の春
   同」

身延山をいでゝ、下山に泊る。

 矢川渡、綱面白くめづらし。飯富・八日市・切石・西島・富士川、早瀬の岨にきり遠しの棧道峨々として、不二の山も見ゆる奇絶也。本島・鰍沢、関所有。青柳、もとの船場にかへるに、道をかへて西、南五に行。東土鏡・中乗・水ノ宮、遊行派の一蓮寺に参て、古風の建立ゆかしき。

 十五日、来迎寺に帰りて滞留。

 十六日は、教順和尚の案内にて、信玄僧正の古城あたり、墓所は円光寺の前、畑の中に有ぬ。 躑躅が崎 の城跡、其世のまゝの石垣に面影残り、戦毎に勝給ふなるも、いわゆる善ならざる事も哀深し。来迎寺にいとまごひして、府中を出る。

 途中にて 重厚 入道に逢ふも、不思義に嬉し。川中島の善光寺え入道、志あるよし、和尚に逢ふて、無下に東都へ帰りともなはるゝ。川田、敲氷(を)田中へ訪ひ、石森の社の寄(奇)石重なれるもめづらしく、日蓮上人、鵜飼済度ありし鵜飼寺も過て、小原、落葉庵を訪ふ。二人の大徳は石牙主と旧友なれば、昼夜をわかたず語りつくせり。

 十七日、主のともなひ、 恵林寺 へ詣る。御醍醐の朝に二階堂の本願にて、夢窓国師の開基なる。境内に古木おひ茂りて精静の禅林なり。山門額に、【雑 華 世 界】とあり。両袖桜。

                  前大僧正信玄

   さそはずばくやしからまし桜花重こん比は雪の降寺

制札有、

   太守愛桜蘇玉堂 恵林亦是鶴林   寺快川和尚

信玄公自作の不動と称して自像を彫て、開山堂にひとしく築地の内に建て、是を安置し給ひ、末世に残されしとぞ。

 塩の山、 向嶽寺 の霊場たりしも、近比焼失して、今再建のしたくもあるや。築地・山門は残りて現然たり。寒泉の池は寺より二町ばかり東にて、湯あみは夏に限り、湯つぼ干上り、井戸側のごとくなる湯口に満る。

   塩の湯の口やつめたき春の味

 菅田の社は、今の代には 天神宮と崇けるといへども、新羅三郎より武田家へ伝はれる「楯なしの鎧」となん聞ゆ。けふもはや日も暮れかゝれば、此奥なる雲峯寺えはまいらず。重宝の旗の文をこゝに記す。

   徐如林。不動如山。如風犯。掠如火。

此四流は、武田家数度の軍功に用ひ給ひし也。

 十八日、信玄公出陣の時、祈願をなし給ふ正八幡の大社へ参。こゝの風士、かしこの神祢宜の家々にいざなはれ遊び、人々にいざなはれ、さし手の磯に会す。ふるき歌に、「 塩の山さし手の磯に住千鳥君が御代をば八千代とぞ啼 」とありしも、今にめでゝ、

   啼止ば千鳥かくるゝ朝霞

   青麦の浪やさし出の磯の風

おのおのの句もあれども、こゝにしるさず。

 十九日、落葉庵をいとまこふに、かのさし出の磯に 翁の石碑 を建んとて供養の俳諧に、各無是非ことに滞留して、一座の会を催す。

   石文はこゝをせにせよ木瓜躑躅

と和尚の一句につゞけて、歌仙行。

翁の石碑


闇の夜や巣をまとはして啼千鳥

 廿日、石牙亭をいでゝ綿塚に行に、主じはじめ見送らるゝ。こゝの季之・春路の二人、和尚を賞(招)じ入、新庵の名を求んとありて、「三峯庵」とよばせむと筆をとりて書残さる。おのおの 杉の御坊 まで送りて名残をおしむ。

 境内に芭蕉塚有り。「 行駒の麦になぐさむ宿(り)哉 」とは、誠に其あたり土肥て民家ゆたかに、たゞ物静なり。聖太子の馬蹄石、此庭前に有。親鸞聖人の箸の杉とやらんも、今は焼うせて杉木堂建。黒駒むらは、太子の駒の出しと唱ふ。駒木野関所有、藤の木といふ山中に泊る。三坂峠の麓也。

芭蕉塚


 廿一日は、此山を一里半登る。八湖の一ッを不二の裾野に見ながし、さはるものなきは百地の見所ありといへども、絶景此上やあらじ。

   打明て見塚の富士や花の空

 川口、沢、浅河、湖辺。

   めぐり行不二の裾野や春おしき

吉田千軒社迄、是より十三町、三坂峠よりこゝに五里・小沼此あたりより郡内島織・十日市場・ 谷村 秋本侯の城下成しも、今御領と成、平岡御代官、鶴郡、郡内郷は名産島山賤しづの女の、桑も見事。むかし翁、こゝ路に暫脚をとゞめ給ふとや。此町にやどる。

 廿二日、井倉・田くら往来の左右の山中は、小山田佐兵衛の古城、岩殿山也。常楽院は聖護院門下の山伏にて、其末院覚養院と申人と道連となるに、春の都の大変に彼宮の御所恙なかりし事を問ひことふに、此山伏よろこぶにかぎりなく、予に酒をほどこすといへども、もとより下戸にて不興にもみちをいそぐ。ほどなく大月の宿にいたる。こゝは府中より東海道本宿、笹子峠よりいづる出合なり。三坂越は漸壱里半遠し。翁、此 猿橋 を渡り給ひて、山家の吟に、

行駒の麦になぐさむやどり哉
   ばせを

犬目・野田尻・鶴川橋、上野原、泊。

 廿三日、須波、甲斐・相模の境、関屋有。

   信濃からおふじ見そめしはつ恋も
      甲斐の名ごりにむつの花ごと

ゝ、狂歌おかしく口ずさむ。関の原・よし野・小原・小仏峠、御関所 横川箱根 と同く厳重たり。川原宿・ 駒木野八王子 ・本郷・八木・八幡・日野、府中に泊る。

河原・布田・高井戸、四ッ屋の見付にて支度して中洲の多賀屋敷に着。

 廿五日、白銀町、由利何某の方へ行。

 廿六日、老師・其由法師と三人、深川辺 長慶寺 、芭蕉翁・其角・嵐雪などの墓所え参。雪中庵を問ひ、語らひて、 霊巌寺八幡す崎の弁天 。南海の眺、一円に上総・下総を見わたす。

 廿七日、由利氏手代案内して、 神田明神湯島天神 、上野へ 弁才天 ・東御堂。此寺内、神田山と申寺に佐野善左衛門勇士の墓所、毎も参詣多し。 浅草の観音 にて浮世物真似も三都随一にて、興しありて帰る。

 廿八日、雨天。向井氏の宅に 重厚 入道おはしますにかたらひ、 松露庵 を訪ひ、其由師旅館に遊ぶ。

 廿九日、和尚と二人遊行。

猪牙舟や春の行ゑを追ごとし
   蝶夢

行春や流れは尽ぬ隅田川

愛宕山・ 増上寺 、きらびやかに広大なり。青松寺・神明・ 山王 、霞ヶ関なる筑前岩瀬山琢老を訪ひ、糀町・四ッ谷へ出て帰る。

 晦日は、白銀町伝佐惣兵衛と二人、糀町の屋敷へ見廻、永野氏に対して終日もてなされて、一件の始末など語り、古郷なつかしく遊ぶ。

 四月朔日、大下馬先にて、御登城拝見して、

   風わたる大下馬さきや衣更

それより重厚師・ 白雄 坊を尋て、又、多賀屋敷にて 如毛 子の帰りを見送る。

 二日は、この屋敷にて洞月の席画など見つゝ、人々と語らひ居る。

 三日、深川河上庵泰里・古友のもふけに、和尚・重厚・其由と共に会す。和尚、ほ句に、

   悠然と春行みづやすみだ川

とし給ふにつゞけて俳諧に遊ぶ。

 四日、白銀町。中洲にすいに休ふ。

 五日、白銀町にかたらひ、本庄の内田氏の方へ由利氏御同道被下、むかし物語も一入に、酒食に飽。

 六日、夢師・其由法師と三人遊覧、 伝通院護国寺 ・護持院、曹司谷の茶店の藤の花は今盛なれば、暫く休む。

   青嵐ふくや王子に曹司谷

 瀧の川の弁天は此地の侯(?)景、珍らし。水の流は岡に曲り、岩窟の九折は高からずしてそば立、底深き所に床几ありて、時をうつす。 若王子宮稲荷 ・飛鳥山 ・ 道灌山 ・日暮、 根津権現 まで見巡り帰る。

 七日、和尚・重厚・其由・麦宇と共に、御蔵前の 成美 子のいざなひに角田川の船に遊び、饗応。

   旅ごゝろあらはん夏の角田川

   土運ぶ舟や卯浪の綾せ川

   遠の山こちの海飛ぶほとゝぎす

 八日・九日、由利氏閑話。

 十日、主人、都のかたへ登り給ふ。人々と 六郷の渡し 迄見送る。 品川 にて、

   満汐に藻の花かゝる船(?)木哉

道すがらの遊興に、夜に入て帰る。

 十一日、老師・院主、三人、 五本松 あたり 五百羅漢 ・さゝい堂・ 亀井戸の天神 ・恵香(回向)院、折節角力も休て馬谷が講釈も束の間にして、中洲え帰泊。

 十二日、白銀町伝佐と糀町の屋敷へ見廻。

 十三日、白銀町より勘三が芝居え行。退屈して昼過、中洲え行。はや両法師、即透(誘)引して日暮の法(奉)団会に行給ふと聞へて残多し。

 十四日は、多賀の御祭とて其由僧都の元へ招れ、完来・下叟・兎男も見へて饗応にて、終日語らふ。

 十五日、由利氏の宅にて、初鰹など振舞に酒を汲む。

 十六日、江戸発足。院主の元を出、河岸ばたにて、

   首途やはつ郭公影も見で

   時鳥に行違けり日本ばし

と口ずさむ。芝 泉岳寺 の四十七士墓へ参。

   忠誠院刃空浄剣居士 大石内蔵輔義雄 行年四十五

と有。余略。

  品川河崎 ・生麦、茶店絶景、往来多し。神奈川、 程ヶ谷 に泊。主の女が光り物の噺も中洲に居て知らず、はじめて聞。

 十七日、

   朝途出てほどがやに聞く杜宇

武蔵・相模の境、上鶴間・寺尾入口にて見へる・ 戸塚 、鎌倉・街の別れ道立石あり。

 長沼、長永寺、親鸞聖人旧跡。鎌倉小袋谷、円覚寺五山・建長寺・勝地寺、扇ヶ谷、こゝに水戸公建立の英勝寺、境内に阿仏の墓有。比企ヶ谷の妙本寺、判官のおはせし所とかや。 鶴ヶ岡の八幡宮 は、名にしおふ霊場也。一ノ鳥井より三の花表まで拾八丁、南海の側へ続く。公卿の銀杏、左の柳、社の左右に有。

   兵の影見るごとし夏木立

 星の井の辺り、坂下三左衛門とて此辺の剛家と見えしも、泰里庵主の文の案内によりて留らる。家主の老女は、仙鳥といふ風流の人なり。けふや見残せし所々まめやかに案内ありて、再古跡を見廻る。夜に入て此家に泊る。

   前書略

とゞめぬる言葉の花の鰹かな
   仙鳥

 はつ郭公名にしあふ宿
   木姿

老師に物書てもらはんと、予もともにせつかれ認置。

 十八日、朝とでに、ひたすらとゞめんと乞れしもすげなく出るに、文台もて裏書をたのまれ、是非なく和尚も筆とりて暫く時うつる。

 極楽寺の切通しを越るに、義貞の有し世のことなど思ひつゝ、七里が浜づたひに腰越より江の島へわたらんとするに、折も汐よければ歩足渡りして、さもゆゝしき関東第一の絶景も、雨気に打曇りて富士の山も見へず。此島の山めぐり、世に類稀なるにや、案内者せつくもことわりぞかし。されども同行和尚は遠近をあまた度遊行なせる人にて、まめやかに教へ給ふて、生涯の鬱散いふばかりなし。 天女の岩窟 は、しほじを経てはるかの奥深く入。江の島やさして塩路に跡たるゝ神はちかいのふかき成べし」と、古歌にも有。

   江の島の奢や夏の雨曇り

 もとの腰越に帰り、浜辺へわたりて浦人に問ふて、あやしき村を過、藤沢山 清浄寺 へ参。馬入川・花水の橋、曇りて富士見へず。平塚・ 大磯 、和泉屋に泊。 鴫立沢 の庵主問ふ。

   うき草の旅や流れのはなごゝろ

と一句を残し帰らんとするに、庵主、脇を付て留らるゝを、

   大磯の小磯の浦のうら風に
      引ともしらずかへる袖哉

と旅宿にやどる。

 十九日の朝、和尚とともに庵主に対し、鴫立沢のそこらあわれしり顔に見て、道をいそぐ。帰命堂・国府、真楽寺、開山上人七歳の旧跡。 さかは河四十八文、川ましてれん台渡小田原 、成美子の教にしたがひ小清水やにて伊豆の街を尋、海辺へ出て熱海へ志。石橋山の麓に石投村あり。往来より一町計登れば佐奈田与市義忠の墓所、杉木下に有。治承四年庚子八月廿三日の夜と有。名だゝる勇士の後世に名を残せることは世の常にして、あつぱれ也。

   鶯の老やむかしをいまに啼

 こなたの岸のうへに与市の良等文三墓ありて、同月同日なり。道のかたわらに矢の根石などいふあり。米かみ村、坂の下に茶店、こゝら難所。根部川御関所、箱根に同、小田原御支配。江の島岩むら・ 真奈鶴 、往来より下にて、江戸へ石切出す所。沖なる大島は曇りて見へず、利しまみゆる。久峯山長徳寺は山谷に見ゆ。真奈鶴錠口とて出茶屋。吉浜に泊る。浦浪の音、家を震ひ、寐られぬまゝに二人、夜もすがら語らふ。

 頼朝公を隠せし辻堂は今の頼朝寺とて、吉浜にあり。ふし木隠れの跡は、此村奥にありとかや。岩村・五味・青木と名に呼ぶ者、あかしより 朝公、柴船に隠し鎌倉へ送り奉り(し)よし。

 門河・吉浜の間に橋有。伊豆・相模の境とぞ。堀の内、常願寺、土肥次郎・実平の兄弟、廟所あり。其古城にいぶきの大木ありといへども、少し廻り道、難所とて尋ず。伊豆山権現大社、地領三百石のよし、別当槃(般)若院。瀧の湯は麓の海側、湯壺の下に汐汲海士が家も有。湯あみしてすゞむ。水湯也。

   海晴て瀧の湯かくす夏霞

 古々井社の名所につれづれとなく郭公をきゝて、興じながして、

   余所は兎もかくもこゝゐの時鳥

 熱海渡辺彦左衛門と申人のもとへ、江戸より文通ありて、廿日の昼過着て、湯に入。江戸より湯治ありて賑ふにや、家々華美にして一間(軒)一間(軒)に湯壺、他にすぐれて弁(便)也。日金山の石碑の摺ものなん、主じの男くれらるゝ。

 伊豆の七島といへども、八丈ヶ島は尚見へず、大島。利島・三宅じま・神津島・三蔵島・ はつ島 とやらんきゝしも、漸三島ほど見へぬ。

   島々の帆に薫り鳧青嵐

 天木山にて、内裏炎焼の御用木を伐出すよし噂にきく。天木山は麓に下田の湊、通船、日和を窺ふすいへ[ん]とぞ。熱海より廿里隔て難所なるよしも、辰巳に当りて山を指て教らるゝ。

 廿一日、こゝより直に峠にかゝる。箱根山のうら道なり。見かへれば見飽ぬ海道、行人はまれ也。「 箱根路をわれこへくれば伊豆の海や沖の小島に浪のよるみゆ 」とよみ給ひしもかゝるやをと弐里行ば、軽井沢・鬢沢、平井までは山路なる。大土肥・大場などゝ武士の名にきこへて、よしありげに、左へ行くば韮山、こゝを 蛭が小島 と云とぞ。今は御代官江河氏の古く住居とかわ。此家の棟札は日蓮上人の題目なるよし。右に行ば 三島明神 の社、駿河国沼津は水野の城下、 乙児 六花庵なる官祖主を訪ふ。こゝにとゞめられて泊る。

 廿二日、原・よし原、不二川の大河。ふじの眺、こゝらにしかずと聞しも、曇りて裾計見へてくやし。「時しらぬ山は富士の根いつとても鹿子まだらに雪のふるらん」と業平の歌も思ひ出して、なをざりに歩行がたし。岩淵不二のりあり

   五月雨や弓手の不二に矢のごとく

 神(蒲)原・ 由比 ・さつた峠、こゝも小雨にふじみへず。興津、山形屋に泊る。「おきつ潟磯手に近きいはまくらかけぬ浪にも袖はぬれけり」と詠じ給ふもか(く)也。

  清見寺 ・江尻橋の不二。

   旅心放てすゞし清見潟

江尻より久能山へ道あれども、雨天ゆへ不行。三保の松原向に見て、曇りし不二を見かへる。

 府中・阿部川四十五文丸子 、とろゝ汁に昼したゝめ、宇津の山路に望(臨)。「駿河なるうつの山辺ののうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」とありしはむかしのことにして、今の道はゆきゝ絶ず。さながら物うき山の奥に、 宗長 の旧地とて尋ぬ。柴屋寺の庭めぐりに、天桂山吐月峯とて奇なる山有。

鶯も老にけらしな柴屋寺

血をはける鳥や吐月峯の上
   老師

うつの山、十団子、家々かけならぶ。峠に地蔵堂、千代の古道は別なるとぞ。「色ふかき蔦はふ跡の露しげみ心細きはうつの山」、慈鎮和尚の歌のごと関東第一の往還となれども、大井川も近くなりて、五月を質に入るゝの盗もつきまとひて、何となく長途旅に心細し。

 岡部・藤枝、田中の城下町、端にいさらき川有。無理におひわたす。 島田宿 、こゝの長たる油屋何某は和尚知れる人、手をとりとゞめられて、宗長庵主阿人も見へて、夜と共に語らふて、千布主(に)対して、

ほとゝぎすきくや名にあふ大井川

 紐解く頭陀のかほる柚花
   千布

廿四日、阿人草庵に翁塚、嵐雪と并ぶ。

五月雨の雲落つけよ大井河
   芭蕉

浅き瀬を人に教へよ燕子花
   嵐雪

千布と二人、川辺え出て、八人の男をそろえて連台に乗せて渡らす。

 八十六文の川とて、台に水をひたすもことゆへなく越へて、 金谷の宿 も過て、坂中に不二見台の山有。駿河・遠江の境に菊川こゝに矢根鍛冶あり、「渡らんとおもひやかけし東路にありとばかりは菊川の水」。

  なか山 、「命なりわづかの笠の下涼み」翁。「年た経ても又来るべきと思ひきや命なりけり小夜の中山」西行上人のよみ給ひしも、又、「甲斐が根はさらにも見しかけゝら鳴くよこほれふせる小夜の中山」とも。名にしあふ無間の鐘のところも、向の山なりとか。日坂、蕨餅。 八幡宮 、事のまゝの神と崇して、旧 掛川太田備州公城下。袋井、川岸に泊る。

掛川城


 廿五日、 見付 、池田湯ノ谷墓あり・天龍川三十四文定目、別舟のまし十六銭、至て大河也。

   鮹(たこ)のぼす天龍川に雲の峯

と一句述るも、所がらの習ひにや、夏凧をのぼせる。 浜松 城主井上河州公蓮花寺 に泊る。入野ゝ方壺・白輅の風士はじめ人々、和尚を待設けて、夜となく昼とわかずいとまなき雅談に、

蓮花寺の古池を見れば、明照寺の百年のけしきもありし昔も床しくて

   短夜や春思ひでゝ啼蛙

 廿六日、方壺主いざなひに、白輅・柳也とともに入野ゝ臨江寺に遊ぶ。斗六主も見へて、壺主のもてなしに旅の労を忘る。

   不二見へて卯浪しづけし臨江寺

夢師、土産を賞して言葉書あり。略。

麦秋の埃きよめて神遷
   方壺

 白重なる袖と拝めよ
   蝶夢

友得ては旅の思ひをとりどりに
   白輅

 鶴の股(もも)毛のそよぐ浦風
   木姿

松一木見こしに薄き昼の月
   柳也

 けふは角力のはじめ成とや
   斗六

      下略

   探題

早乙女や築摩の里の笠着連
   白輅

藻の花や人の一期もうきしづみ
   木姿

暮残る山田の畔や花茨
   斗六

青鷺や草刈笠もたゞ一人
   方壺

筍のつらぬく露の蕗葉哉
   蝶夢



 五月朔、旦に嵩山正宗寺禅林を右に見る。ほど無、 吉田 城下に出る。松平豆州公。浜松より本坂越にして、舞坂・ 荒井 を不通。 木朶 ・古帆の風士に対して、方壺主は三日、和尚を送りてこゝにて別をおしむ。留別、

   国ごへのわかれ五月の空闇し

国府の傍なる久保といふ所に、得々とて二葉のときから和尚をしたふ人とて、未、朝ながらも人なふ留られて、挨拶句、

   こゝろ有軒や青葉の森林

此句に主じの脇して歌仙執行、此処に秋葉・ 鳳来寺 の別れ道有。

 五月もはや二日なれば、御油 東うらに楠大木あり赤坂 間の山中なる法蔵寺は、神君の結所とかや藤川 ・大平土橋・乙川の流・ 岡崎 本多家居城、橋、日本一の結構、弐百間。豊川・池鯉鮒馬市場・野路、小川に橋有、三尾の境也。 有松 しぼりの名あり鳴海宿 。こゝの千代蔵 と呼ぶ人、和尚と因ありて訪るゝ。「小夜千鳥声にぞちかく鳴海潟かたぶく月に塩やみつらん」には時たがふて、

   蚊の声や波もあやなき鳴海潟

岡崎城


 三日、天林山 笠覆寺 の庭なる芭蕉塚に、「星崎のやみを見よとや鳴鵆」。「古郷にかわらざりけり鈴虫の鳴海の野辺の夕暮の声」、為仲卿も詠じ給ふ。予も、

   ほし崎の暮待えてや飛ぶ蛍

 宮、 熱田大社 、爰の大主は木曾の深山木を領地したまふにや、宮居、結構なり。是より名古屋の城下と続く。町並、豊也。町々の寺社見めぐり、一筆坊を訪ふ。それより琵琶島・清須・稲場・萩原を過、起の宿に泊る。尾美の境は川を隔。

 四日、きこゆるおこし川、舟にて渡。須の又、是も又大河、船わたし。古川、結明神、「なぎの葉にみかける露のはや玉を結ぶの宮や光りそふらん」。 大垣城主戸田公、杭瀬川の辺、 木因 旧庵。芭蕉翁の塚は、忌中間に木因の建る。

  垂井 、君里雅家に泊る。きさらぎ晦日比には此軒を問ひて、不二を巡り十国余を経たり。はや菖蒲葺日とこそはなりぬ。大とこのまめやかなるにしたがふて、かた時も労せず、今もとの道にかへれば、都のかたもなつかしく、五日は、雨しきりにふれど、東雲に出て

、    関の戸もさゝでこと足る幟哉

二人馴ぬ酒を汲かわして、道すがらの雨をしのぐ。須瀬の柏屋にて、

   不破こへてもろこ心や菖蒲酒

   艾売軒の匂ひや笹粽

もとの道なれば記すにおよばず。愛知川、芦水亭に待やもふけられて、泊る。

 六日、横田川・野須川の水まされどいとひなく、成一の若者と連だち、道をいそぐ。

   徒の旅や六日の菖蒲草
   蝶夢

   あふみ路や見馴し山の晴

草津 の山城屋は首途の日の宿りなれば、又、此家に三人泊る。

 七日、日和よければ矢走の船に乗りて、大津、菊二亭に休らひ、昼過には京へ帰る。



 世の中は、皆我にしてわれを知らず。富士の山を見んと年比の願ひも、天命の年も過て既に思ひ得たり。何ごとも、己はおのれに問ふて、ことうる事なし。その時の風に乗じて、転化することゝのみ記す。

   不二めぐり花ほとゝぎす杖を引

 都三条、袖の河原辺、獅子庵の木姿、旅の日記を草考して置ぬ。比は天明八ッのとし申の五月中旬。

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