このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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浜松城跡
〜若き日の徳川家康公〜
浜松は元曳馬
(ひくま)
という地名だった。
弘安2年(1279年)10月22日、阿仏尼は引馬の宿に泊まっている。
今宵は、引馬
(ひきま)
の宿といふ所にとゞまる。此所の大方の名は、浜松とぞ言ひし。親しといひしばかりの人々なども住む所なり。住み来し人の面影も、さまざま思ひ出られて、又めぐりあひて見つる命の程も、返々
(かへすがへす)
哀なり。
浜松の変らぬ影を尋ね来て見し人なみに昔をぞ問ふ
其世に見し人の子孫
(こうまご)
など呼び出でてあひしらふ。
『十六夜日記』
浜松に来たのだから浜松城跡に立ち寄ってみた。
入場料は150円。
たまたま県民の日で、無料だった。
浜松城
浜松城は
徳川家康
が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570年)6月に入場し、17年間在城した。東西600メートル、南北650メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々普代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
浜松市
浜松は出世城なり初松魚 十湖
大井川河川敷
に句碑がある。
若き日の徳川家康公
銅像撰文
徳川家康公は天文11年(1542年)三河国
岡崎城
内に誕生した。父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿河・甲斐・信濃の五カ国に及び、海道一の弓取りと武名を馳せるにいたった。そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、260余年の泰平の基礎を固めたが、やがて
駿府
に退隠、元和2年(1616年)薨じた。乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。像は浜松時代の若き日の公の姿。手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。
昭和56年12月20日
享和元年(1801年)3月3日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で浜松に入る。
浜松の城には馬込川をわたりていれり。城下の賑ひよのつねならず。板屋町・田町・神明町・伝馬町・旅籠町などたてつゞきたり。井上河内守の城なり。
『改元紀行』
嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、
舞坂
から
松並木
を抜けて浜松に泊まる。
列松の間を穿つこと三里、濱松に宿す。井上河内守の居る所なり。
『東遊日記』
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