このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道東海道


東海道松並木

浜松市西区舞阪町の県道49号細江舞阪線は旧東海道。

阿仏尼は10代の頃、遠江に下る。

 都出でて遙かになりぬれば、かの国の中にもなりぬ。浜名の浦ぞおもしろき所なりける。波荒き潮の海路、のどかなる湖の落ち居たるけぢめ、はるばると生ひ続きたる松の木立など、絵に画かまほしくぞ見ゆる。

『うたたね』

 弘安2年(1279年)10月22日、阿仏尼は浜名の橋を越える。

 濱名の橋より見わたせば、かもめといふ鳥、いとおほくとびちがひて、水のそこへもいる、岩のうへにも居たり。

  かもめゐるすさきのいはもよそならずなみのかずこそ袖に見なれて


東海道松並木


この松並木は慶長9年(1604年)徳川幕府の命により街道を整備し黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712年)には舞阪宿の東端見付石垣より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に1,420本の立木があったという。その後寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938年)国道付替えの際、堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。

現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。

舞阪町・舞阪町教育委員会

舞坂   今切真景


舞坂宿は、日本橋 から67里(264.9キロ)品川宿から数えて30番目の宿である。

東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから 新居宿 まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。

浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498年)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。

 天明6年(1786年)3月、蝶夢は方壺の案内で浜名湖巡り、「今切」のことを書いている。

さるをそのゝちならむ、つねならぬ大浪の寄けるにうち崩されて、こなたの松原・かなたの橋もいづち行けむ、あらずなりて、今の世には松原のありしあたりを今切(いまぎれ)のわたりとて、三十町あまり潮うみと水うみ一つになれるなり。


蝶夢は明応7年(1498年)の地震を知らなかったようである。

 嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、 舞坂 から松並木を抜けて浜松に泊まる。

列松の間を穿つこと三里、濱松に宿す。井上河内守の居る所なり。


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