このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道


舞阪 一里塚跡

東海道松並木 から舞坂宿に入る。

史跡 見付石垣

 この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。

石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709年)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。

舞阪町教育委員会

新町 常夜燈


 舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防(ひぶせ)の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。

 常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ、地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

舞阪郷土史研究会・浜松市

一里塚跡


 江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(3.9km)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松等を植えた一里塚が整備されていった。

 一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞阪の一里塚は日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていた。

舞阪郷土史研究会・浜松市


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