このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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中山道
中山道
垂井宿
「東の見付」
から中山道垂井宿を歩く。
東の枡形に「
旅籠
亀丸屋」があった。
亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、200年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。
安永6年(1777年)に建てられた間口5間・奥行6.5間の母屋と離れに上段の間を含む8畳間が3つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、2階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。
垂井町
明和8年(1771年)9月2日、諸九尼は垂井宿に泊まっている。
飯田より新道といふ難所をこえて、やうやう九月朔日美濃路に出づ。
多久手
、
鵜ぬま
、垂井にとまる。
『秋風記』
垂井宿の問屋
間口5.5間、奥行7.5間の金岩家は、代々彌一右衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。
問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。
当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。大通行が幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。
垂井町
「垂井宿本陣跡」の標柱があった。
中山道
垂井宿本陣跡
本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。
ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政12年(1800年)の記録によると、建物の坪数は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。
本陣の建物は、安永9年(1780年)に焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。
垂井町教育委員会
櫟原セッ
(※「折」の下に「足」)
斎は儒学者。俳号君里。本姓は栗田。
安永4年(1775年)冬至、櫟原
(いちはら)
君里は
芭蕉の句碑
を建立。
安永9年(1780年)3月、
蝶夢
は木曽路を江戸へ向かう途中、櫟原氏を訪ねている。
諷ひものに作りし鶏籠山は、上なる山をいふとぞ。垂井の宿に櫟原氏をたづぬ。その家にある聖堂を拝するに、かゝる駅の中に孔孟の道を伝へて、馬おふわらべ駕荷ふ男までに五常の事など教さとすぞ、有がたき心ばへなめり。垂井の水は玉泉寺といふ前にあり。涌出る水の玉のごとく、清冷いふべからず。
『東遊紀行』
天明8年(1788年)2月29日、蝶夢は江戸へ下る途中で再び君里を訪ねている。
垂井の宿なる君里主は、老師の旧友とて訪ふ。暫く物がたりのうちに、珍味などもてなされて出る。
『富士美行脚』
享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は垂井宿に入る。
小流をわたりて垂井の駅に入る。右の方に小社あり。左に寺あり。右に石の鳥居たてり。 こゝよりも南宮の山へ八町ありといふ。駅中に、関孫六兼元出店といへる札かけし家あり。
『壬戌紀行』
本龍寺
の前に「商家」があった。
垂井宿の商家
この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して旅人宿を営んだ。
土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。
垂井町
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