このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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史跡 垂井追分道標

垂井町に自然石の「垂井追分道標」があった。


垂井追分道標


垂井町指定史跡 垂井追分道標

 垂井宿は 中山道 と東海道を結ぶ 美濃路 の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。

 追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。

 この道標は宝永6年(1709年)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保3年(1718年)の角柱の道標もあった。

垂井町教育委員会

 享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は「垂井追分道標」を見ている。

あい川をわたる。土橋四つばかり所々にかけわたしたり。これ垂井川なりといふ。右に追分の岐路ありて、左木曾路谷汲道としるせる石あり。


垂井町を相川が流れる。

相川の人足渡跡

相川は、昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。

川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡し賃が決められていました。

一方、姫宮や朝鮮通信使など特別な大通行のときには木橋がかけられました。

 垂井町

相川を渡ると、垂井宿。

東の見付

 垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440キロメートル、58番目の宿になります。見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常事には閉鎖したりしました。

 ここ東の見付から約766メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる 西の見付 に至ります。

 垂井町

中山道 垂井宿 を歩く。

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