このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2014年
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大湫宿
〜皇女和宮の歌碑〜
旧中山道
は県道65号恵那御嵩線から県道394号大湫恵那線に入る。
歴史の道
中山道
大 湫 宿
海抜510メートルの高地に、江戸から47番目の宿として、慶長9年(1604年)に新たに設けられた。東の
大井宿
には3里半、西の
細久手宿
には1里半と、美濃16宿の中では最も高く、それだけに人馬ともに険しい山坂が続く難所に開かれた宿でした。東に桝形を設けた宿の中心には、今も神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。
脇本陣の保々家(江戸中期)、問屋の丸森森川家(江戸末)、新森森川家(明治)の4棟は、建造物として国の登録有形文化財に登録されています。
瑞 浪 市
貞享2年(1685年)、貝原益軒は大湫宿のことを書いている。
○大久手より細久手へ壹里半、大久手の家三十四五軒許。大久手、細久手、いづれもいやしくあしき小なる町なり。此間に琵琶坂とてあり。此坂の上より、艮の方に木曾のみたけみゆる。北に加賀の白山よくみゆる。白山は太山なるが、麓まで雪あり。是日本三番の高山なり。飛騨の山あひよりみゆる。又此地より西に伊吹山みゆる。
『岐蘇路記』
大湫宿観音堂
道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。現在の建物は、弘化4年(1847年)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。
観音堂に芭蕉の句碑があった。
花さかり山は日ころのあさほらけ
出典は
『芭蕉庵小文庫』
。
「芳 野」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)春、
『笈の小文』
の旅の折、吉野で詠まれた句。
この句碑は寛政7年(1795年)芭蕉の100年忌に際して大湫宿の俳句グループが供養塔として建立したものです。
おもだか屋
無料休憩所である。
享和2年(1802年)3月27日、太田南畝は大湫宿に入る。
ゆきゆきて大久手の駅にいる。左のかたに鳥居みゆるは何の社にや。駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり。木のもとに神明の宮をたつ。駅舎のさま細久手に似て、それよりも人家すくなし。
『壬戍紀行』
より
嘉永6年(1853年)5月15日、吉田松陰は江戸に行く途中、大田から大湫宿に泊まる。
十五日 朝翳。福寄の爲めに書畫巻の跋を作る、亦別録あり。太田を發して行くこと少許、舟にて木曾川を横絶(よこぎ)り、伏見・御岳・細久手を過ぎて大久手に宿す。行程八里。宿に就きし後、大雷雨あり、乍(たちま)ちにして止む。
『癸丑遊歴日録』
旧大湫小学校は大湫宿本陣跡である。
文久元(1861年)10月28日、
皇女和宮
は十四代将軍徳川家茂へ御降家のため、大湫宿本陣で一夜を過ごされた。
旧大湫小学校に皇女和宮の歌碑があった。
皇女和宮御歌
遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり
思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは
2005年、大湫小学校は釜戸小学校に統合。
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