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私の旅日記
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2014年
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中山道
〜大井宿本陣跡〜
JR中央本線恵那駅から
中山道
大井宿本陣跡まで歩いてみた。
中山道大井宿のあらまし
中山道大井宿は、江戸から87里(344km)46番目の宿場で、京へは47里(188km)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ケ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。
宿は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場という5町に分れ、東の高札場から西の大井橋まで6丁(710m)であった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる桝形によって区切られていた。大井宿ではこの桝形が6か所もあって、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。
宿内には本陣や脇本陣・問屋のほか・旅籠屋・茶屋・商売屋など天保14年(1843年)の記録では家数110軒(466人)が軒を並べていた。本陣、脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参詣費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。旅籠屋の中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般の旅人ばかりでなく武士も利用したと思われる。草鞋や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒あった。宿場は旅人が宿泊するだけの場所でなく、街道を往来する諸荷物の集積、中継という重要な役割をになっていた。この役割を果たすのが問屋で、大井宿には本町に上下2つの問屋があり、半月交代で宿役人が詰め、仕事の指図をしていた。
大井宿の西側を流れる阿木川にかかる大井橋は長さ23間(41m)、幅2間(3.6m)の欄干付きの木橋であった。この橋ができる天保年間以前は阿木川の真ん中に石の小島を作り、そこの両側から橋をかけて川を渡っていたので中島橋ともいった。
恵 那 市
恵那市教育委員会
『木曽路名所図会』(大井驛)
送られつをくりつはては木曽の秋(蝿)
大井橋の親柱に西行の歌が嵌め込まれていた。
心ある人に見せばや大井なる花無山の春の景色を
平安の歌人
西行法師
は旅のみちすがら恵那の地に立寄り庵を結んでその風光を愛で暮したと伝えられる。
この橋のかけかえにあたり親柱に法師の碑の姿をうつし、先人の優れた文化の香をしのぶよすがとするものである。
旅籠屋角屋
旅籠屋と木賃宿
食事付で泊まるのは旅籠屋だが、食事無しの宿泊は木賃宿である。
写真(右の写真)は旅籠屋角屋の正面だが、木曽路に多い出桁造となり、取外しのできる格子戸がはまり、軒には講札が多くかけてある。その右側は特殊な方の出入り門となっていた。
恵那市・恵那市教育委員会
大井宿下問屋跡
大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の2か所にあった。
問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。
宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足50名と馬50頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。
(大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡内7か村)
恵那市・恵那市教育委員会
宿役人の家
林家は文化2年(1805年)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの60余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。
当家は間口7間半奥行25間あり、11・10・8・6・4畳などの部屋が14室もある大型旅籠屋であった。
そのうち東側2間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の8畳の部屋3室が特別室となっていた。
尚宿役人は問屋
(最高責任者)
・年寄
(問屋の補助役)
、その下役人に人足指
(人足の指図をする役)
・馬指
(馬の指図をする役)
・書役
(かきやく)
などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。
恵那市・恵那市教育委員会
大井村庄屋古山家
古山家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしてた。そして享保年間から幕末まで約150年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。
屋敷は間口10間半(約19m)・奥行35間(約63m)の敷地の中に、14畳・10畳・8畳の部屋など合計8室、それに土蔵をもつ広大な建物があった。
今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある10畳2間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。
恵那市・恵那市教育委員会
大井宿本陣跡(岐阜県史跡)
大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6個所の枡形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったと言われています。
本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで、門構えや玄関、式台があり、他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は、本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼けのこり、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺きで破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で、幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。
平成4年12月 恵那市教育委員会
延享2年(1745年)4月14日、
横井也有
は尾張公のお供をして江戸から中山道を上り大井宿に泊まる。
十四日
大井にとまる。
山中はたえて竹のなき所にて、桶の箍などいふ物も木にて営めり。こゝの宿にて初て竹の子を調じて出せるを、いとめづらしくて、
竹の子にあふて家路もほどちかし
『岐岨路紀行』
享和2年(1802年)3月27日、太田南畝 は
西行坂
を下り大井宿に泊まっている。
又ほそき流の橋をわたりてゆきつゝ大井川の仮
(板)
橋をわたり、大井の駅につく。けふは道のほど八里あまりなれば、未のなかばばかりなるべし。
『壬戌紀行』
嘉永6年(1853年)5月16日、吉田松陰は江戸に行く途中、
大湫
から大井に至る。
十六日 雨、已にして止む。終日陰翳。大湫を發して大井に至る。此の間、道の左に
僧西行の墓
あり。
『癸丑遊歴日録』
文久元年(1861年)10月29日、
皇女和宮
は大井宿で昼食休憩。
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