このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


作り木の庭をいさめるしくれ哉

垂井町に本龍寺という寺がある。


本龍寺山門


明治初期に金岩脇本陣門を移築したそうだ。

本龍寺本堂


真宗大谷派 の寺である。

本龍寺に「作り木塚」があった。


   美濃垂井規外かもとに冬籠して

作り木の庭をいさめるしくれ哉

  出典は 『蕉翁句集』

「真蹟懐紙」 には「作りなす」とある。

文化6年(1809年)、建立。白寿坊書。

白寿坊 は野村信我。美濃派(以哉派)七世道統。

  『諸国翁墳記』 に「作り木塚 西濃垂井本竜寺内アリ 三井軒杵交造立」とある。

 垂井町指定史跡

作り木塚と芭蕉翁木像

 俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号 規外)と交友があり、元禄4年(1691年)冬に本龍寺で滞在し、

   作り木の庭をいさめるしぐれ哉

などの句を残している。

 本龍寺には文化6年(1809年)芭蕉のほか美濃派ゆかりの俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、作り木塚とよばれている。

 安政2年(1855年)時雨庵ができ美濃派十五世 国井化月坊 ゆかりの芭蕉翁木像も大切に保管されている。

垂井町教育委員会

本龍寺滞在中、規外の発句と芭蕉の脇がある。

芭蕉翁行脚の時、予が草庵を扣きて、作りなす庭に時雨を吟じ、 洗ひ揚たる冬葱の寒さ を見侍る折からに

木嵐に手やあてゝ見む一重壁

 四日五日の時雨霜月
   翁

『国の華』

傘狂の句碑


蜂の巣や知らぬきのふをあふながる

  「傘狂」は美濃派(以哉派)六世 大野是什坊

化月坊の句碑


一二丁笠わすれたる清水哉

 元禄4年(1691年)冬、芭蕉は本龍寺滞在中に「雪見の像」を書残したという。

芭蕉翁、元禄四年の冬、我寺に来給て、ながき記念にせよと、雪見の像書置されし。今五七日の忌に、此像の前にかしこまりて、


  垂井
今からは雪見にころぶ人は誰
   規外

『後の旅』 (如行編)

  いつしか「雪見の像」は失われたようである。

 安政5年(1858年)5月、武蔵の国熊谷の旗本高刀氏所蔵の木像を譲り受け、時雨庵に納めた。

時雨庵


芭蕉翁木像は大切に保管されて、非公開。

山口誓子 は、本竜寺で芭蕉の句碑と芭蕉の木像を見ている。

  不破 へ行く途中、垂井の本竜寺に芭蕉の句碑を見た。本堂の南側、いくつかある句碑の中にそれはあった。自然石に

   作り木の庭をいさめるしぐれ哉

と刻まれている。私はこの句碑に興味はなかったが、その前書の「美濃垂井規外のもとに冬籠して」を喜んだ。

 元禄四年十月、近江の膳所を出立、平田 明照寺 に泊り、美濃の垂井に来て、本竜寺の規外のところで冬籠をした。そして大垣に立ち寄り、千川の亭にも遊んで、江戸へ向って行ったのだ。

 そのとき、規外は

   木がらしに手をあてて見む一重壁

と詠い、芭蕉は

   四日五日のしぐれ霜月

と附けた。

 「木がらし」は伊吹颪だ。芭蕉はこの寺で暫く冬籠をしたものと思われる。

 この体験が千川亭の 冬籠の句 となったのだ。私はそう思う。

 私は本竜寺の本堂で、芭蕉の木像も見た。ほっそりした撫肩の芭蕉だった。


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