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私の旅日記2011年

美濃不破関跡〜碑巡り〜
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関ヶ原町松尾に「美濃不破関跡」がある。


 寛元4年(1020年)、菅原孝標女は「父の任果てて」上京。不破関を越える。

 雪降り荒れまどふに、物の興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国、おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり。


不破関は九条良経の歌で知られている。

   和歌所歌合に、關路秋風といふ事を
   攝政太政大臣

人すまぬふわの關屋のいたひさしあれにしのちはたゝ秋の風

『新古今和歌集』 (巻第十七雑歌中)

 仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中、不破の関を通る。

 柏原と云所を立て、美濃国関山にもかかりぬ。谷川霧のそこにを(を)づれ、山風松の声に時雨わたりて、日影も見えぬ木の下道、哀に心ぼそく、越果ぬれば不破の関屋なり。板庇年へにけりと見ゆるにも、後京極攝政殿の、「荒にし後はたゞ秋の風」とよませ給へる歌、思出られて、この上は風情もまはりがたければ、いやしき言の葉を残さんも中々に覚て、爰をばむなしく打過ぎぬ。


 弘安2年(1279年)10月18日、阿仏尼は鎌倉へ下る途中、不破関を越える。

不破の関屋の板庇は、今も変らざりけり

   隙多き不破の関屋はこの程の時雨も月もいかにもるらん


美濃不破関跡

 壬申の乱(672年)後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大宝令(701年制定)によって東海道の伊勢鈴鹿関・北陸道の越前愛発(あらち)関と共に東海道の美濃不破関が「三関」として規定された。美濃国府の国司四等官が分番守固し、多くの兵士が配置されて国家の非常事態に備え、また一般の通行を取締まっていた。

 このように不破関は奈良時代の重要な国の施設であったが、延暦8年(789年)7月、三関は突如として停廃された。兵器・粮糒は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移建されてしまった。

 岐阜県教育委員会が昭和49年から5次にわたって実施した不破関跡発掘調査によって、不破関の概要が明らかとなり、これを契機に昭和57年3月、不破関跡の一角に資料館を建設した。岐阜県教育委員会をはじめ関係諸機関の多大の協力を得て、不破関の関する諸資料を収集・保管し、一般公開することによって奈良時代の不破関研究の一助に資することとした。

 昭和57年9月

関ヶ原町教育委員会
不 破 関 資 料 館

關月亭


町・県史跡 不破関守跡

 『木曽路名所図会』にも描かれている、関藤川より大木戸坂を登り切った辺りのこの一帯が、関守の屋敷跡です。

 関守は延暦8年(789年)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。

 関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、段丘際の眺望の良い所にあり、格好な地にあったと言えましょう。

関ヶ原町

 明治44年(1911年)4月13日、河東碧梧桐は「不破関旧跡」を訪れている。

 四月十三日。晴。

 一行十余人、関が原大戦の趾を訪いかたがた一日の散歩をした。関が原駅に下車して、先ず不破の関趾に入り、芭蕉の「藪も畠も不破の関」の写生に成ることを知った。次ぎに 関が原の役 で、最も同情すべき人は、大谷吉隆であるというので京街道の隘路を阨していたその陣所の跡宮の上に上って、五輪の墓をも展した。関が原で遅い昼餉をして、一同垂水(ママ)まであるくことにして、途中美濃の一の宮 南宮神社 と朝倉山を見た。日暮れ月を踏んで帰った。


庭に芭蕉の句碑を始め、多くの碑があった。


 大正13年(1924年)11月7日、 荻原井泉水 は「不破関旧跡」を訪れている。

そこはこの家の庭という風に囲われているが、松、椎、樫、椿など何れも相応に年代のついた大木が、如何にも旧跡の旧跡らしく、うっそうとして、その下に句碑や歌碑などが処狭きまで建てられている。芭蕉の「秋風や」の碑もここにある。「美濃国不破古関銘並序」という大きな碑は今横に寝かしてある。うしろの垣から、裏の方を見ると、これは今も、芭蕉の句にある通りの「藪」と「畠」とである。

『随筆芭蕉』 (不破の関附近)

芭蕉の句碑


秋風や薮も畠も不破の關

出典は 『野ざらし紀行』

貞享元年(1684年)の句。

以哉派七世道統 野村白寿坊 書。

 元禄2年(1689年)8月、芭蕉は『奥の細道』の旅で敦賀から不破関を超えて大垣に入ったはずであるが、記録はない。

 元禄4年(1691年)10月、芭蕉は上方から江戸に帰る途中でに不破関を超えて垂井の本龍寺で滞在した。

  『芭蕉句鑑』 に「元禄四未年 冬の部」として「寒き夜に不破の関守人は誰そ」が収録されているが、存疑句とされる。

 元禄4年(1691年)10月9日、森川許六は彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。19日、夜半に 赤坂宿 を立ち、夜の中に不破の関を越えている。

十九日、夜半過るころ、赤坂をたつ。青野が原、不破の関 など、夜の中に行

ねぢお(を)れる物見の松や夜の雪

   夏ごろ不破のせきにて

頬あてや土用干する不破の関

此句及かけ橋の蝉の句、 嵐雪 がほめたれば、又爰にのせたり。


支考の句碑


みなうつるちかづきの顔月見かな

大垣不二菴社中、建立。

各務支考 は美濃派(獅子門道統)二世。

美濃派第五世までの句碑が建てられている。

廬元坊の句碑


名月や山も谺に起とをし

大垣不二菴社中麗々舎竹旭蘆、造立。

仙石廬元坊 は美濃派第三世宗匠。

帰童仙の句碑


誠にと立あかりけり不破の月

三井軒杵交、造立。

帰童仙は美濃派第四世宗匠 田中五竹坊

雪炊庵の句碑


名月や雲有りてよしなふてよし

雪炊庵は美濃派第五世宗匠 安田以哉坊

五竹坊の門人だが、破門されたという。

以後美濃派は以哉派と再和派に分裂した。

美濃派第九世宗匠 山本友左坊 、建立。

蜀山人 の狂歌


大友の王子の王に点うちてつふす玉子のふわふわの関

 明和8年(1771年)4月5日、諸九尼は不破関跡を訪れ、句を詠んでいる。

 五日 伊吹山を左に見つゝ行。嵐身にしミて、卯月の空ながら寒し。垣根に咲るうの花も、かゝる折こそ物にもまがひつべし。行々て爰なん不破の関屋の跡といふ。今は荒たる板びさしもなく、石をたゝたる形ばかりわづかに残れり。その上にわら家たえだえにミゆ。

   うの花にかたぶく軒やふはの関


 明和9年(1772年)、上矢敲氷は不破関のことを書いている。

○不破関ハ関ヶ原・今須ノ間、松尾村といふ所也。関屋の跡、今高石垣ニ而昔ノ関守ノ子孫ノよし。


 寛政4年(1792年)3月25日、小林一茶は江戸を出立し京都へ。不破の関で句を詠んでいる。

しのぶ庇にうゑよ不破の関

『寛政句帖』

 寛政5年(1793年)、 田上菊舎 は不破の関を越え、再び美濃の 大野傘狂 邸を訪れた。

名にあふ不破を過るとて

   月のもる笠に涼しう関越しぬ


 享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は「不破の関屋の跡」を見ている。

板橋をわたりて坂を上る。大関村といふ。これ不破の関屋の跡なりといふ。軒端くちたるあばら屋に、うりいゑといへる札おしたるは、飛鳥川ならねど、せにかはりゆく宿なるべし。かゝるわびしきやどをうりて、いづくにさすらいゆくらんと思ふに、涙まづ落ぬ。


山口誓子 は、不破関を訪れて芭蕉の句碑を見ている。

 芭蕉の句碑は木立の奥に、北を向いて立っていた。

   秋風や藪も畠も不破の関

 芭蕉は貞享元年の「甲子吟行」の旅でここを通過した。

 秋風が吹いている。眼の前にあるのは藪と畠ばかりである。不破の関はない。その藪、その畠によって昔を偲ぶばかりである。

 この句の「藪」と「畠」の印象はあざやかである。

 「秋風や」は、藤原良経の

   人すまぬ不破の関屋の板びさしあれにしのちはたゞ秋の風

に由っている。

 この歌の「板びさし」の印象はあざやかだ。それで廃屋を廃屋たらしめている。その上「あれにしのちはたゞ秋の風」という詠嘆がいい。かぼそい音楽を聞く思いがする。この歌は景情ともに備わっている。

 芭蕉の句もいいが、良経のと並べて読むと、「秋風や」のところがすこし弱い。


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