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紀行・日記



『東関紀行』(作者未詳)


 仁治3年(1242年)8月、作者が鎌倉へ下り2ヵ月滞在した後、10月23日に帰京の途につくまでの紀行文。

 齡は百とせの半に近づきて、鬢の霜やうやくに冷(すず)しといへども、なす事なくして徒に明し暮すのみにあらず、さしていづこに住はつべしとも思ひ定めぬ有樣なれば、彼の白楽天の「身は浮雲に似たり、首は霜に似たり」と書給へる、あはれに思ひ合せらる。もとより金帳七葉のさかへを好まず、たゞ陶濳五柳の栖(すみか)をもとむ。しかはあれども、太山(みやま)の奧の柴の庵までも、しばしば思ひやすらふほどなれば、なまじゐ(ひ)に都のほとりに住ゐ(すまひ)つゝ、人なみなみに世にふる道になむつらなれりこれ即身は朝市に有て心は隱遁にある謂(いはれ)あり。

 かゝる程に、思はぬ外に、仁冶三とせの秋八月十日余りの比、都を出て東へを(お)もむく事有。まだ知ぬ道の空、山重り江重りて、はるばる遠き旅なれば、雲を凌ぎ霧を分つゝ、しばしば前途のきはまりなきにすゝむ。つゐ(ひ)に十余の日数をへて鎌倉に下り着し間、或は山館野亭の夜の泊(とまり)、或は海辺水流の数かさなるみぎりにいたるごとに、目に立所々、心とまるふしぶしを書置て、忘れず忍ぶ人もあらば、を(お)のづから後の形見にもなれとて也。



 音に聞し 醒が井 を見れば、蔭暗き木の下岩ねより流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、誠に身にしむばかりなり。余熱いまだつきざる程なれば、往来の旅人おほく立寄てすゞみあへり。

西行が「 道の辺の清水ながるゝ柳陰しばしとてこそ立とまりつれ 」とよめるも、かやうの所にや。

   道のべの木かげの清水むすぶとてしばしすゞまぬ旅人ぞなき

 柏原と云所を立て、美濃国関山にもかかりぬ。谷川霧のそこにを(お)とづれ、山風松の声に時雨わたりて、日影も見えぬ木の下道、哀に心ぼそく、越果ぬれば 不破の関屋 なり。板庇年へにけりと見ゆるにも、後京極攝政殿の、「荒にし後はたゞ秋の風」とよませ給へる歌、思出られて、この上は風情もまはりがたければ、いやしき言の葉を残さんも中々に覚て、爰をばむなしく打過ぎぬ。

 株瀬(くゐぜ)川といふ所に泊りて、夜更る程に川ばたに立出てみれば、秋の最中の晴の空、清き川瀬にうつろひて、照月なみも数見ゆ計すみわたり、二千里の外の古人の心思ひやられて、旅の思ひいとゞを(お)さへがたくおぼゆれば、月のかげに筆を染つゝ「華洛を出て三日、株川に宿して一宵、しばしば幽吟を中秋三五夜の月にいたましめ、かつがつ遠情を先途一千里の雲にを(お)くる」など、ある家の障子に書つくる次面(ついで)に、

   知らざりき秋の半の今宵しもかゝる旅寝の月を見むとは

 明ぼのの空になりて、 瀬田の長橋 打渡るほどに、湖はるかにあらはれて、かの満誓沙弥が比叡山にてこの海を望みつゝよめりけむ歌思ひ出られて、漕行舟のあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。

   世の中を漕行舟によそへつゝながめしあとを又ぞながむる

瀬田の唐橋


 尾張国 熱田の宮 に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがてまい(ゐ)りて拝み奉るに、木立年ふりたる杜の木の間より、夕日の影たえだえさし入て、あけの玉垣色をそへたるに、しめゆふに彼ゆふしで風にみだれたることがら、ものにふれて神さびたる中にも、ねぐらあらそふ鷺むらの数も知らず梢にきゐるさま、雪のつもれるやうに見えて、遠く白き物から、暮行まゝにしづまりゆく声も心すごく聞ゆ。有人のいはく、此宮は素盞嗚尊也。はじめは出雲国に宮作り有けり。「八雲立」といへる大和言の葉も、是よりぞはじまれる。其後景行天皇の御代に、この砌に跡をたれ給へりといへり。又いはく、この宮の本体は、草薙と号し奉る神剣也。景行の御子、 日本武尊 と申、夷をたいらげて帰り給ふ時、尊は白鳥と成て去給ふ。剣は熱田にとまり給ふといへり。

 やがて夜の中に 二村山 にかゝりて、山中などを過ぐるほどに、東やうやうしらみて、海の面はるかに顕れ渡れり。波も空も一つにて、山路につゞきたるやうに見ゆ。

   玉匣(たまくしげ)二村山のほのぼのと明行すゑは波路なりけり

二村山


 ゆきゆきて三河国 八橋 のわたりを見れば、在原の業平が杜若の歌よみたりけるに、皆人かれいゐ(ひ)の上に涙おとしける所よと思出られて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。

   華故におちし涙のかたみとや稻葉の露を残しを(お)くらむ

 源の嘉種がこの国の守にて下ける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、「もろともにゆかぬ三河の八橋を恋しとのみや思ひわたらむ」と読りけるこそ、思ひ出られて哀なれ。

 矢矧といふ所を立て、宮路山越え過ぐるほどに、 赤坂 と云宿有。爰に有ける女ゆへ(ゑ)に、大江定基が家を出けるもあはれ也。人の発心する道、其縁一にあらねども、あかぬ別れをお(を)しみし迷ひの心をしもしるべにて、まことの道にを(お)もむきけん、有難くおぼゆ。

   別れ路に茂りも果で葛の葉のいかでかあらぬかたにかへりし

 参河、遠江のさかひに、高師山と聞ゆるあり。山中に越えかゝるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波ことことしく聞ゆ。境川とぞいふなる。

   岩つたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山にき来にけり

 橋本といふ所に行つきぬれば、聞渡りしかひ有て、景気いと心すごし。南には海潮あり、漁舟波にうかぶ。北には湖水あり。人家岸につらなれり。其間に洲崎遠く指出て、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松のひゞき、波の音、いづれと聞きわきがたし。行人心をいたましめ、とまるたぐひ、夢を覚さずといふ事なし。湖に渡せる橋を浜名となづく。古き名所也。朝たつ雲の名残、いづくよりも心ぼそし。

   行きとまる旅寝はいつもかはらねどわきて浜名の橋ぞ過ぎうき

 扨も此宿に一夜泊りたりしやどあり。軒古(ふり)たる萱屋の所々まばらなる隙より、月の影曇りなく指入りたる折しも、君どもあまた見えし中に、すこしをとなびたるけはひにて、「夜もすがら床の下に晴天をみる」と、忍びやかに打詠たりしこそ、心にくく覚えしか。

   言の葉の深き情は軒端もる月のかつらの色に見えにき

  遠江の国府 今の浦に着ぬ。爰に宿かりて一日二日泊りたるほどに、蜑の小舟に棹さして浦のありさま見めぐれば、塩海水うみの間より、洲崎とを(ほ)く隔りて、南には極浦の波袖をうるほし、北には長松の風心をいたましむ。名残おほかりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日の目うつりなからずは、是も心とまらずしもはあらざらましなどおぼえて、

   浪の音も松のあらしもいまの浦にきのふの里の名残をぞ聞く

  ことのまゝ と聞ゆる社おはします。その御前を過ぐとて、いさゝか思ひつゞけられし。

   ゆふだすきかけてぞたのむ今思ふことのまゝなる神のしるしを

  小夜の中山 は、古今集の歌に、「よこほりふせる」とよまれたれば、名高き名所とは聞置たれども、見るにいよいよ心細し。北は太山(みやま)にて松杉嵐はげしく、南は野山にて秋の華露しげく、谷より峰にうつる白雲に分入心地して、鹿の音(ね)涙を催し、虫のうらみ哀ふかし。

   ふみまよふ嶺のかけはしとだえして雲にあととふ佐夜の中山

 此の山をも越えつゝ猶過行ほどに、 菊川 といふ所あり。去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人、罪有て東へ下されけるに、此宿に泊りたりけるが「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齡を延ぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」とある家の障子に書かれたりけると聞置たれば、哀にて其家を尋ぬるに、火のために焼けて、彼言の葉も残らぬよし申ものあり。今は限とて残し置きけむ形見さへ、あとなく成にけるこそ、はかなき世のならひ、いとゞあはれに悲しけれ。

   書きつくるかたみも今はなかりけり跡は千年とたれかいひけむ

菊川坂石畳


 菊川を渡りて、いくほどなく一村の里あり。こまばとぞいふなる。この里の東のはてに、すこし打登るやうなる奧より大井川を見渡したれば、はるばると広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入り違ひたるやうにて、すながしといふ物をしたるに似たり。中々渡りて見むよりも、よそめ面白くおぼゆれば、彼紅葉みだれて流れけん龍田川ならねども、しばしやすらはる。

   日数ふる旅の哀れは大井川わたらぬ水も深き色かな

  清見が関 も過うくてしばし休らへば、沖の石、むらむら塩干に顕(あらはれ)て波にむせぶ。礒の塩屋、所々風にさそはれて煙なびにけり。東路の思出とも成ぬべき渡り也。昔朱雀天皇の御時、将門といふ者、東にて謀反を(お)こしたりける。是をたい(ひ)らげんために、宇治民部卿忠文をつかはしける、此関に至りてとゞまりけるが、清原滋藤といふもの、民部卿にともなひて、軍監といふ司にて行けるが、「漁舟の火の影は寒くして波を焼く、駅路の鈴の声はよる山を過ぐ」といふ唐の歌をながめければ、涙を民部卿流しけりと聞にもあはれなり。

   清見潟関とはしらで行く人も心ばかりはとゞめを(お)くらむ

 此関遠からぬほどに、 興津 といふ浦有。海に向ひたる家にやどりて泊りたれば、礒辺によする波の音も身の上にかゝるやうにおぼえて、夜もすがらいねられず。

   清見潟礒べに近き旅枕かけぬ波にも袖はぬれけり

 伊豆の国府に至りぬれば、 三嶋の社 のみしめうちお(を)がみ奉るに、松の嵐木ぐらくお(を)とづれて、庭のけしきも神さびわたり、此社は、伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞にも、能因入道、伊予守実綱が命によりて歌読み奉りてけるに、炎旱の天より雨にわ(は)かに降て、枯れたる稻葉もたちまち緑にかへりけるあら人神の御名残なれば、ゆふだすきかけまくもかしこくおぼゆ。

   せきかけし苗代水のながれ来て又あまくだる神ぞこの神

 この宿をもたちて鎌倉に着く日の夕つかた、雨俄に降り、みかさも取あへぬほどなり。急ぐ心にのみさそはれて、大礒、絵嶋、もろこしが原など、聞ゆる所々を、見とゞむるひまもなくて、打過ぬるこそいと、心ならずおぼゆれ。暮かゝるほどに下り着きぬれば、なにがしのいりとかやいふ所に、あやしの賤が庵を借りてとゞまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬簾のもとに行違、後は山近くして窓に臨む。鹿の音虫の声、垣のうへにいそがはし。旅店の都にことなる、やうかはりて心すごし。

 かゝる程に、神無月の廿日余りの比、はからざるにとみの事有て、都へ帰べきに成ぬ。その心のうち、水茎の跡もかき流しがたし。錦を着るさかへは、もとより望む所にあらねども、故郷に帰るよろこびは朱買臣にあひ似たる心地す。

   故郷へかへる山路の木がらしに思はぬ外のにしきをや着む

 十月廿三日のあかつき、すでに鎌倉を立て都へを(お)もむく。宿の障子に書つく。

   なれぬれど都をいそぐ朝なればさすが名残のお(を)しきやどかな

紀行・日記




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