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私の旅日記
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2010年
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興津座漁荘
〜風生の句碑〜
静岡市清水区興津の国道1号(
旧東海道
)に興津座漁荘がある。
昭和46年(1971年)3月18日、座漁荘は愛知県犬山市の明治村に移築される。
座漁荘址
昭和46年(1971年)8月、建立。
興津座漁荘
西園寺公望公は嘉永2年(1849年)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治・大正・昭和3代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の天寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
座漁荘は明治の元老・西園寺公が70歳になった大正8年(1919年)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
興津座漁荘
平成16年(2004年)4月、復元。
西行
も「清見潟」を歌に詠んでいる。
海邊月
清見潟月澄む空のうき雲は富士の高嶺の煙成けり
名所月
清見潟沖の岩こす白波にひかりをかはす秋の夜の月
『山家集』
歌川広重『東海道五十三次・興津』
現在、「清見潟」には国道1号済静バイパスが通り、跡形もない。
仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中で興津に泊まる。
此関遠からぬほどに、興津 といふ浦有。海に向ひたる家にやどりて泊りたれば、礒辺によする波の音も身の上にかゝるやうにおぼえて、夜もすがらいねられず。
清見潟礒べに近き旅枕かけぬ波にも袖はぬれけり
『東関紀行』
弘安2年(1279年)10月26日、阿仏尼は興津の浜に出る。
廿六日、藁科川とかや渡りて、興津の浜 に打出づ。「なくなく出し跡の月影」など、先づ思ひ出でらる。昼立ち入たる所に、あやしき黄楊の小枕あり。いと苦しければ、打臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に、臥ながら書きつく。
なを
(ほ)
ざりのみるめばかりをかり枕結びおきつと人に語るな
暮れかゝるほど清見が關を過ぐ。岩こす浪の、白ききぬをうちきつるやうに見ゆるいとをかし。
きよみがた年ふる岩にこととはむ浪のぬれぎぬいくかさねきつ
ほどなく暮れて、そのわたりの海
(浦)
近き里にとゞまりぬ。浦人のしわざにや、となりよりくゆりかゝる煙、いとむつかしきにほひなれば、「よるのやどなまぐさし」といひける人の詞も思ひ出でらる。よもすがら風いとあれて、浪たゞ枕のうへに立ちさわぐ。
ならはずよよそにきゝこし清見潟あらいそ浪のかゝるねざめは
『十六夜日記』
富安風生
の句碑があった。
無為といふこと千金や春の宵
元禄5年(1692年)5月20日、貝原益軒は江尻から興津に至る。
廿日。江尻を出て興津に至る。かねて甲斐の国にゆかんとおもふ志ありしかば、まづ興津川をのぼりゆく。
『壬申紀行』
享和元年(1801年)3月1日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で清見潟を眺めながら江尻宿に行く。
寺をいでゝ吟行すれば、夕日なゝめなるに、石の間を流るゝ細き川あり。はたうち川といふ。これ庵崎のすみだ川にや。十六夜の日記に、岩こす波の白き絹をうちきするやうにみゆるといひて、清見潟のながめは心にしみて、かたしく袖の露に月もやどさまほしき夕ぐれなり。庵原川をわたりて江尻の宿につきぬ。府中屋茂兵衛が家をあるじとす。
『改元紀行』
文化2年(1805年)11月14日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で興津に至る。
日みぢかければことはりいひて輿を飛し、府中國吉田
(コヨシダ)
江尻をこえて、興津にいたり、清見寺にいりて、おきつ川をわたる比日くれぬ。
『小春紀行』
嘉永4年(1851年)4月4日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、江尻から興津に至る。
一、四日 翳。卯後、江尻を發し、興津に抵る。江尻・興津の間に
清見寺
領あり。自餘は皆寺西直次郎の代官所なり。
『東遊日記』
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